<出典:wikipedia>
日蓮(にちれん) 1222年~1282年
1222年。
日蓮は千葉県で武士の子として生まれました。
「日本一の知恵者になろう」と考えていた日蓮。
12歳の時に近くの清澄寺(せいちょうじ)で天台宗を学ぶと、16歳で正式な僧になります。
その後、鎌倉に出て念仏や禅を学ぶと、さらに京都の比叡山で10年間の修業を積みます。
この間に、京都・奈良の寺もまわって、各宗派を研究していきます。
長い年月をかけた修行の結果。
日蓮は、
「仏の本当の教えは法華経(ほけきょう)の中にある」
「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)を唱えればすべての人々は救われる」
という考えに至ります。
1552年。
清澄寺に帰ると、翌年。
人々に法華経の教えを説く決心をして、日蓮宗(にちれんしゅう)を開きました。
強固な主張 他宗派や幕府から目をつけられる
日蓮は「法華経こそが正しく、念仏や禅を信じてはいけない」と人々に説き始めます。
しかし、念仏や禅を信じる人たちは快く思いません。
こうして人々の反発を受けた日蓮は、鎌倉へ逃げました。
鎌倉に来た日蓮は、街角に立って法華経の教えを説きました。
また、鎌倉幕府の前執権、北条時頼に「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を提出。
「天災や流行病などの災害が続くのは、念仏などを信じているからである。法華経を信じなければ、争いや外からの侵略で国が滅びる」と意見しました。
日蓮は幕府や他の宗教を激しく攻撃し続けます。
そのため、他の宗派の人から迫害を受け、家を焼かれることもありました。
そしてついに幕府も、日蓮を捕えて静岡の伊東に流してしまいます。
1268年。
モンゴル皇帝フビライ=ハンの使者がやってきて、日本に服従を求めます。
日蓮は予言が的中したといって、幕府に意見書を提出。
今まで以上に激しく念仏を攻撃します。
これに対し幕府は、「日蓮は社会を乱す者」として新潟県の佐渡に島流しします。
佐渡に流された日蓮は、信者も失い厳しい生活を送ります。
しかし、そんな生活の中、独自の教えをまとめ、やがて弟子になるものも出てきました。
1270年ころ。
日蓮は幕府に許され、鎌倉へ戻ります。
しかし、幕府は日蓮の意見を取り入れません。
これに失望した日蓮は、山梨県の身延山(みのぶさん)にこもると、そこで弟子の養成にあたります。
1282年。
日蓮は病気を治すため茨城県の温泉に行くことにします。
しかし、その途中で亡くなってしまいました。