はじめに
剣道を象徴する稽古道具のひとつに「竹刀」があります。
竹刀を振る、竹刀を握る、といった表現がそのまま剣道を修行することを意味するほど、重要なアイテムとして知られています。
竹刀は軽くて丈夫、しかも弾力性があるので思うさま打ち合ってもその衝撃に耐え、防具を着用していれば相手に深刻な怪我を負わせる危険も少なく、剣の稽古には非常に優れた機能を持っています。
そんな竹刀ですが、いったいいつ頃登場したのでしょうか。
ここでは、そんな竹刀の歴史を探ってみましょう。
「しない」の発明は「新陰流」
剣術の稽古で用いられる道具は、真剣の代用としての木刀がもっとも一般的です。
材料も豊富で、刀のかたちをよく再現できて打ち込みにも耐えるため、現代でも古い流派や剣道の形などでは木刀を用いています。
古武道では、あらかじめ定められた手順で攻防の動作を修練する「形」の稽古が主流です。
木刀で自由に本気で打ち合えば、大怪我をするか最悪の死に至ることが理由の一つです。
形稽古はとても重要な練習法なのですが、それでも思い切り自由に打ち合ってみたいという欲求が、昔の武芸者にもあったようです。
そこで、安全に稽古ができる道具が工夫されてきました。
最初に「しない」を発明したのは戦国~安土桃山時代の剣術家、「上泉信綱」といわれています。
彼が編み出した「新陰流」は現代にも伝わる「柳生新陰流」のルーツであり、柳生新陰流では当時とほとんど変わらないとされる昔ながらの「しない」で稽古をしています。
ここでなぜ「竹刀」ではなく「しない」と表記しているかというと、新陰流のものは現代剣道で使う竹刀とは違い、割り竹を皮革で包んだいわゆる「袋しない」と呼ばれるタイプだからです。
竹を途中から四つ割り、八つ割り、そして先端の方を十六割りにして段階的に異なる弾力性をもたせて牛皮で保護し、防具なしで打ち合っても怪我をしないように工夫されています。
「しない」の語源は「撓る(しなる)」ということであり、新陰流の袋しないの登場によってお互いに全力で技を繰り出すという稽古の仕方が可能となっていったのです。
幕末には現在とほとんど変わらない形に
現代の剣道で用いる、四つの竹部材を組み合わせた「竹刀」は、幕末の頃にはすでに完成していました。
袋しないよりも固さがあるため突き技にもよく耐え、傷んだ部材は交換も容易なため全国的に受容されていったと考えられています。
幕末は、刀剣がもっとも実戦で威力を発揮した最後の時代であるため古流剣術が再評価された時であると同時に、竹刀を用いた心身練磨の「活人剣」が追求された時代でもありました。
真剣から竹刀への変遷の歴史を考えるとき、そんな先人たちの命を懸けた求道の精神を感じさせます。
それゆえに、現在も剣道では竹刀を真剣のように大切に扱い、けっして跨いだり粗末に扱ったりしないように厳しく指導しています。