<出典:wikipedia>
後醍醐天皇(ごだいごてんのう) 1288~1339年
1288年。
後醍醐天皇は、後宇多天皇(ごうだてんのう)の皇子として生まれました。
このころの天皇家は、天皇の位や私有地をめぐって、大覚寺統と持明院統の2つの派閥が争っていました。
この状況を何とかするために、鎌倉幕府が仲裁に。
大覚寺統と持明院統が交代で天皇の位に就くことに決めます。
1381年。
大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、10世紀はじめの醍醐天皇の政治を理想として掲げます。
醍醐天皇の政治は、一言でいうと天皇中心の中央集権国家。
なので、鎌倉幕府も摂政も関白も置かずに、天皇みずからが政治の中心となることを目指します。
当時の鎌倉幕府は北条氏が政権を握っていました。
もともと源頼朝が開いた幕府なので、これに不満を持っている武士は多く、後醍醐天皇はこの機会を狙って倒幕の計画を立てます。
1324年。
討幕計画を立てますが失敗。
1331年。
もう一度計画を立てますが、またも失敗。
後醍醐天皇の度重なる討幕計画に対し、幕府は持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を新しい天皇にすることにします。
そして、1332年。
後醍醐天皇は島根県の隠岐島(おきのしま)に流されてしまいます。
後醍醐天皇が政権を握る
討幕計画に失敗し島流しにあった後醍醐天皇。
しかし、後醍醐天皇が島根に行った後も、楠木正成(くすのきまさしげ)が奮闘していました。
幕府はなかなか楠木正成を制圧できず戦いが長期化。
幕府への不満をもつ武士たちは、この様子を見て一気に討幕へと傾きます。
幕府側の有力御家人である足利尊氏(あしかがたかうじ)も、途中で裏切り。
新田義貞も鎌倉に攻め込んで幕府を倒してしまいます。
倒幕派の武士たちが頑張る中、後醍醐天皇も隠岐島を抜け出していました。
京都に帰った天皇は自ら政治を行うとして、年号を”建武”と改めます。
ここから、天皇中心の新しい政治”建武の新政”がはじまります。
天皇中心の政治を目指した後醍醐天皇。
当然、天皇のサポートをする役職の貴族たちを大切に扱います。
逆に鎌倉幕府を倒すために頑張った武士たちには、大した恩賞も与えませんでした。
これには多くの武士たちが不満を持ちます。
そして、足利尊氏が政権を武士の手に取り戻すため反乱。
1336年。
足利尊氏が新たに持明院統の光明天皇を立てて、建武の新政はわずか3年で失敗してしまいました。
後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、別の朝廷を設立。
自分が本当の天皇だと主張します。(南朝)
しかし、多くの武士は足利尊氏につき、後醍醐天皇についた武士たちも戦死し、次第に勢力が衰えていきます。
吉野に移って3年目の1339年。
天皇は病気になって亡くなってしまいます。
後醍醐天皇の死後、南朝の勢いは急速に衰え、1392年。
ついに統合されてしまいます。