日本軍部暴走のはじまり!張作霖爆殺事件が起きる!!

張作霖

<出典:wikipedia

はじめに

日本の近代史は、第二次世界大戦に至る経緯やその結果から、批判的な評価が下されることが多いです。

一方で、戦前の日本がそのような道を歩んでしまった事を同情的——往々にして、欧米や中国など外部に戦争の原因があると説かれる——に評価する専門家もいます。

今回は、そのように評価の分かれやすい近代史の中でも、軍部の暴走の始まりだとされ、双方の立場からよく取り上げられる「張作霖爆殺事件」について解説していきます。

張作霖と日本の関係

張作霖 ―ちょう さくりん―
1875年3月19日 ~ 1928年6月4
・日中華民国初期の軍閥政治家
・奉天派の総帥

 

日本と張作霖の関係は、日露戦争(1904年)までさかのぼります。

日本は、満州を始めとする、中国の豊富な資源を持つ土地に関心を寄せていました。

そのため、同じ関心を寄せていたロシアとの間で日露戦争が起きました。

これに勝利した日本は、日露戦争後のポーツマス条約によって、関東州の統治や南満州鉄道株式会社の設立など中国進出の足掛かりを得ました。

ただ、国際情勢は露骨な支配拡大を許さず、直接日本が満洲を支配することはできませんでした。

 

そこで日本が利用した人物が張作霖でした。

張作霖を支援する形で、日本は満州への影響力を強めていきました。

日本にとって張作霖は、満州の実質的支配にとって必要な人物となりました。

しかし、1928年。

張作霖爆殺事件は起きました。

関東軍の参謀・河本大作大佐の策略で殺されてしまったのです(諸説あり)

では何故、張作霖は爆殺されたのでしょうか??

それは日本と満州を取り巻く環境の変化にありました。

2つの環境変化!!軍部が暴走をはじめる!?

一つ目の変化は、幣原外交(しではらがいこう)の崩壊です。

日本は、満州における権益が条約によって保障されていると考えていました。

現地で誰が統治をしていようとも、それに日本が協力をすれば利益を得られるという姿勢を取っていたのです。

それが最も色濃く表れていたのが幣原外交でした。

幣原外交とは、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)による外交戦略で、中国内政への不干渉・英米協調の方針を掲げたものでした。

この戦略は、中国内政が安定的であったのならば良い結果をもたらしたのかもしれません。

しかし、当時の中国は共産党の台頭が目立っており、このことをイギリスやアメリカだけでなく日本の陸軍も危惧していました。

次第に中国への内政干渉派の声は次第に大きくなり、幣原外交は終わりを迎え、日本は満州の権益を守るためには実力行使も辞さない姿勢へと変わっていきました。

 

二つ目の変化は、張作霖の利用価値の低下です。

当時の中国は蒋介石率いる国民党が力をつけていました。

国民党は中国統一のため、満州の地へ軍を進める「北伐」をおこなっていました。

しかし、張作霖は北伐を退けるほどの軍事力を持ち得ませんでした。

そのため、「張作霖に引退を勧告すべきだ」という主張が日本陸軍の中で生まれました。

また、張作霖は軍事費を賄うため、独自紙幣を発行していました。

これは、張作霖に対する外務省の感情を悪化させました。

紙幣発行による経済の混乱が起きては、日本の輸入業に打撃が与えられるからです。

当時、陸軍の張作霖排除論を制御できたのは内閣と外務省だけでしたが、片翼の外務省が張作霖の排除を望むようになったのです。

 

以上の2点の環境変化により、日本の張作霖への評価は下がっていました。

そして、実際に現地で活動していた、日本陸軍下の関東軍が爆殺を実行しました。

 

当時の総理大臣である田中義一は、張作霖を通じて満州を支配する考えを持っていました。

そのため、この事件が起きると関東軍の処罰などを検討。

しかし、猛反対を受けて実施されませんでした。

この事件に至る経緯やその結末を考えるに、日本の軍部の暴走はここから始まったと言えるでしょう。

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