【工藤俊作|アンビリーバボー1】
【工藤俊作|アンビリーバボー2】
<出典:wikipedia>
工藤俊作 くどうしゅんさく
(1901年~1979年)
1901年。
工藤俊作は山形県で誕生。
1923年に海軍兵学校を卒業し、1932年には水雷学校を卒業。
1941年11月に、駆逐艦「雷」の艦長となります。
1941年12月8日。
太平洋戦争がはじまります。
ハワイ真珠湾攻撃が成功し、日本は戦争を有利に展開していきます。
開戦から3か月後。
日本海軍はインドネシアのスラバヤ沖で連合国軍の艦隊と戦います。
日本海軍にとって37年ぶりの艦隊同志の戦い。
戦闘は46時間にも及びます。
戦況は!!!
・イギリス巡洋艦「エクセター」撃沈
・イギリス駆逐艦「エンカウンター」撃沈
・オランダ駆逐艦「コルテノール」撃沈
・アメリカ駆逐艦「ポープ」撃沈
・・・
日本海軍は合計8隻の連合軍艦艇を撃沈し大勝利。
ジャワ海付近における連合国軍艦船がほぼ壊滅し、その後ジャワ島攻略の足掛かりとなります。
予想外!工藤俊作の命令!!
スラバヤ沖での海戦から一夜明けた、3月2日。
日本海軍の駆逐艦「雷」は、戦闘の行われたジャワ海北東部にいました。
このとき、「雷」の監視兵は前方に多数の漂流物を発見。
そして、その中にイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」の漂流兵を発見しました。
漂流兵の数はなんと400名以上。
「雷」の乗組員の倍以上でした。
知らせを聞いた「雷」の艦長・工藤俊作はすぐさま漂流者たちのいる海域へ接近。
なんと敵兵の救助活動を始めます。
これには、乗組員たちも漂流していた敵兵も驚きました。
・この海域ではまだ連合軍の潜水艦が行動している可能性がありました
・当時の国際法では、敵から攻撃を受ける可能性があるときには救助しなくていいとされていました
・実際、日本の病院船が連合国軍から攻撃されたこともあり、1943年には日本軍も駆逐艦秋風虐殺事件を起こしています
一歩間違えれば、自分たちがやられる。
そんな中、工藤は救助を選択したのです。
工藤は海軍兵学校時代に、校長の鈴木貫太郎からある哲学を受け継いでいました。
「真心と礼儀をもって接すれば、外国人でも兄弟のように親しくなれる」
在学中に学んだ武士道精神を見事に実践したのです。
サミュエル・フォーの来日
スラバヤ沖海戦でイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」を破壊され、漂流していたサミュエル・フォー。
海に投げ出され20時間が経っていました。
体力はすでに限界近い。
そんななか敵駆逐艦「雷」が現れます。
「敵による機銃掃射がはじまる・・・」
そう覚悟した瞬間。
信じられない光景が浮かびます。
なんと、「雷」のマストに救助活動中の信号旗が掲げられたのです。
「雷」乗組員は、すぐさまロープや縄梯子、竹竿などで救助が開始。
しかし、体力が残っていなかったため自力で這い上がれない者も多く、救助活動が難航します。
すると、今度は日本兵が海に飛び込み救助を開始したのです。
こうして、無事救助されたイギリス兵は重油まみれの身体を貴重な真水で洗われ、暖かいミルクなどとともに丁重に扱われました。
サミュエル・フォーはこの時の体験を片時も忘れることなく、2003年になって一言お礼を言いたいといって来日したのです。
ただ、工藤俊作はすでに亡くなっていたため、墓参りをして感謝の思いを伝えました。
多くを語らなかった。工藤俊作の生涯
工藤俊作は、身長185cm、体重90kgという大きな身体の持ち主でした。
しかし、性格はおおらか。
艦長になると鉄拳制裁を禁じたため、艦の雰囲気が明るくなります。
工藤は部下からの信頼も厚かったといいます。
駆逐艦「雷」の艦長として活躍した工藤は、その後、駆逐艦「響」の艦長に就任。
しかし、終戦間際に急性気管支炎を患い、第一線を退きます。
戦後は、姪が開業した病院で事務仕事をして過ごします。
毎朝、仏前で、戦死した同期や部下たちの冥福を祈っていたといいます。
戦争についてはほとんど語らず、スラバヤ沖海戦の話もサミュエル・フォーが来日してはじめて世に知られることになりました。
工藤はいつもイギリス人からもらったというカバンを持っていました。
使い古してボロボロになったそのカバンは、スラバヤ沖海戦で救助されたイギリス人からもらったものだったのかもしれません。
1979年。
胃癌により、工藤はその生涯に幕を閉じました。