<出典:wikipedia>
山本五十六 やまもといそろく
(1884年~1943年)
1884年。
山本五十六は新潟県で7人兄弟の末っ子として誕生します。
1901年に海軍兵学校に入学しますが、1904年に日露戦争が開戦。
少尉候補のまま巡洋艦「日進」に配属されます。
1905年。
戦闘中に左手の人差し指と中指を欠損。
もう少し傷が深かったら退役させるほどのケガでした。
1939年。
山本五十六は連合艦隊司令長官に就任。
当時、日本とアメリカはかつてないほどの緊張状態にありました。
国内ではアメリカとの戦争をやむを得ないとする「艦隊派」と、アメリカとの戦争は絶対にさけるべきだとする「条約派」に分かれます。
山本五十六は「条約派」。
駐米武官として5年近くアメリカで生活したため、国力差を十分に実感していたのです。
しかし、日に日に対米開戦の空気が高まります。
このとき山本五十六は次のように発言しています。
「どうしてもやれというなら半年や1年は暴れてみせます。しかしその先は分かりません。」
山本五十六の大博打
やがて、日米開戦が避けられない情勢になったため、山本五十六は心ならずも対米戦略を研究。
そのときの心情を手紙にこう綴っています。
「個人としての意見と正反対の決意を固め、その方向に一途万進の外なき現在の立場は誠に変なもの也」
そんな山本五十六が考え導き出したのが「ハワイ真珠湾航空機奇襲作戦」でした。
民主主義国家のアメリカは、国民や議会が反対すれば大統領がいくら望んでも、戦争を継続できなくなる。
しかもアメリカは第一次世界大戦で多くの若者を死地に追いやっており、ルーズベルト大統領は「若者を戦争に送らない」というマニフェストで当選していました。
このような状況を理解していた五十六は、先制攻撃を仕掛け大打撃を与えることで、アメリカ国民の戦意を削いだうえで早期講和に持ち込もうとしたのです。
1941年12月8日。
日本から攻撃機が出撃。
真珠湾上空に到達すると、ただちにアメリカの太平洋艦隊へ爆撃を開始します。
アメリカの戦艦2隻が沈没。
3隻が大破。
航空機は359機が破壊され、死者は2388名。
山本五十六の作戦は大成功します。
しかし、ここで大きな誤算がありました。
それが、宣戦布告通達の遅れ。
真珠湾を攻撃する直前に宣戦布告する予定だった日本でしたが、駐米大使の怠慢により宣戦布告が遅れたのです。
ルーズベルト大統領はこれを最大限に利用し、「日本はだまし討ちをした。パールハーバーを忘れるな」といって世論を誘導します。
こうして、日本は早期講和を結べなくなり、アメリカとの持久戦に突入しました。
もう一つの大博打。ミッドウェー海戦
山本五十六はもう一つの大博打。
ミッドウェー海戦をしかけます。
これはハワイ北方のミッドウェー島を攻略し、アメリカ海軍の空母部隊を誘い出し殲滅するという作戦でした。
しかし、後手後手にまわった日本海軍機動部隊は、空母4隻を喪失してしまい、優秀なパイロットも戦死してしまいます。
1943年4月18日。
日本軍の暗号を解読していたアメリカは、山本五十六が乗った一式陸上攻撃機を襲撃。
山本五十六は戦死しました。
戦後。
GHQ長官になったマッカーサーは、山本五十六について次のように語りました。
「連合国との戦争に反対し、開戦になると真珠湾攻撃で成功を収めた。
日本海軍の実施した戦争努力と戦略的頭脳こそが彼であった」と。