<出典:wikipedia>
小沢治三郎 おざわじさぶろう
(1886年~1966年)
1886年。
小沢治三郎は宮城県の高鍋町に生まれます。
若いときはかなり暴れん坊で、中学生の時に生徒同士の対立で日本刀を引き抜いて大暴れしました。
1909年。
海軍兵学校を卒業すると、海軍士官となり水雷を専攻。
1930年には欧米に行き、見聞を広めます。
帰国後。
海軍大学校で戦術家の教官を務めると、生徒たちに「独創的な戦法を研究せよ」と説きました。
また、日本の陸軍と海軍が不仲だったことに苦言を呈し、交流することの大切さを説いていました。
太平洋戦争がはじまる
太平洋戦争がはじまると、南遣部隊の司令官に。
船団を護送してマレー半島東岸に陸軍兵を上陸させる任務を行います。
このとき、陸軍の山下奉文中将の信頼を得た小沢は、評価が高まり陸軍とのパイプ役が期待されることとなりました。
1944年6月15日。
マリアナ沖海戦がはじまります。
太平洋戦争の戦局が悪化していく中で、日本軍は起死回生を懸けてこの戦いに臨みます。
このとき、機動部隊を率いたのが小沢。
航続距離が長い日本の航空機の利点を生かした「アウトレンジ戦法」を採用し、遠距離からの攻撃を計画します。
作戦は途中まで順調に進みます。
しかし、アメリカはすでに長距離用レーダーを発明していました。
このレーダーで動きを正確に読み取っていたアメリカは、次々と日本軍機を撃墜していきます。
さらに、小沢の乗っていた空母「大鳳」が魚雷1発で沈没。
これにより、小沢は戦艦を移ることとなり、戦況の把握もできなくなります。
マリアナ沖海戦で敗北した日本軍。
小沢は周りから非難を浴びます。
しかし、小沢は「ほかにどんな作戦があったのか」と反論。
実際、アメリカとの戦力差を埋めるためには、この作戦以外なかったのです。
レイテ沖海戦
1944年10月。
レイテ沖海戦がはじまります。
この戦いでは「おとり作戦」を採用。
小沢の第1機動部隊がおとりとなって、アメリカ艦隊を誘い出した後に第2艦隊がレイテ湾に突入するという作戦でした。
これも途中まで上手くいきます。
アメリカ軍第3艦隊をレイテ湾北方へ誘いだし、レイテ湾口はからっぽに。
あとは第2艦隊が突入するだけ。
しかし、ここで第2艦隊がレイテ湾突入を目前に反転。
作戦は失敗に終わります。
終戦とその後
1945年。
終戦の際に、小沢は海軍将兵たちに対して「自決」を禁止。
第3航空艦隊司令官の寺岡謹平にも
「君、死んじゃいけないよ。みんなが死んだら誰が戦争の後始末をするんだ」
と声をかけ、少しでも多くの命を救おうとしました。
戦後はインタビューや取材を断り「沈黙の提督」として過ごします。
生活はけっしてラクなものではなく、養鶏をしたり自宅の部屋を人に貸したりして生計を立てていました。
小沢は、戦績だけ見ると敗戦続き。
有能な将のようには見えません。
しかし、アメリカ軍太平洋艦隊司令官だったチェスター・ニミッツは、
「小沢提督は敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」
と称しています。
また、1966年に小沢が亡くなったときには、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソンから「偉大なる戦略家で船乗りだった小沢提督の死を心よりいたむ」という弔辞が寄せられました。