<出典:wikipedia>
小村寿太郎 こむらじゅたろう (1855-1911)
1855年。
小村寿太郎は、日向国(宮崎県)の藩士の子として生まれました。
16歳で大学南校(現在:東京大学)に入学。
やがて第一回文部省留学生としてアメリカへ渡り、ハーバード大学で法律を学びます。
1880年。
帰国した寿太郎は司法省に入り、4年後に外務省に移ります。
その後、外務大臣の陸奥宗光に実力を認められると、外交官として清(中国)に派遣され、以後、アメリカ・ロシアなど各国で勤務をはじめます。
このころ、日本では韓国・満州をめぐってロシアと対立を深めていました。
ロシアは満州に軍隊を置いて韓国にも勢力を伸ばそうとしており、日本も韓国から満州に進出しようとしていました。
1901年。
寿太郎は、桂太郎内閣の外務大臣になると、翌年、ロシアに対抗するためイギリスと日英同盟を結びます。
そして、1904年。
日露戦争がはじまります。
戦争は日本有利で進みましたが、翌年には戦争のために集めた資金が底をつき、多くの兵士も失っていました。
一方、ロシアでも皇帝の政治に反対する革命運動が起こり、両国とも戦争を続けるのが難しくなります。
こうした中で、寿太郎はアメリカ大統領のセオドア=ルーズベルトに和平の仲立ちを頼みます。
1905年。
ルーズベルトにより、アメリカ東部のポーツマスで戦争終結の講和会議が開かれます。
寿太郎は日本の代表としてこれに参加。
賠償金の要求をします。
しかし、これを断られたため、樺太の南半分を日本領にすることで条約を成立させます。
ポーツマス条約により日本の勝利に終わった日露戦争ですが、十分な賠償は得られませんでした。
そのため戦争で苦しい生活を強いられていた人々は、寿太郎を非難。
各地で条約に反対する集会が開かれました。
東京では「講和反対国民大会」が日比谷公園で開かれ、条約に不満を持った人々が市電を焼いたり警察署を襲ったりしました。
日露戦争後。
日本は韓国に統監府という役所を置いて支配を強化します。
そして、1908年。
2度目の外務大臣となった小村は、1910年に韓国併合を行いました。
1911年。
寿太郎はついに関税自主権の回復に成功。
江戸時代に結ばれた不平等条約を改正します。
これにより、日本は輸入品に対して自由に税をかけられるようになり、欧米と対等の地位を得ることになりました。