<出典:wikipedia>
はじめに
「安倍晴明」を主人公とした小説や映画がヒットしたことで、かつて「陰陽師」という人々が活躍したことが広く知られるようになりました。
メディア作品の中では不思議な術を操って魔を祓い、都を守護する超能力者のように描かれていますが、陰陽師の最も重要な仕事のひとつとして、天体を観測して暦を作成することがありました。
つまり、「カレンダー作り」を任務としていたのです。
当時のカレンダーには日々の吉凶や方角についてのよしあし等々、現代以上に占いの要素が強かったため、陰陽師は優れた占術家でもある必要がありました。
しかし、カレンダー作りを司る「暦道」には、陰陽師だけが関わっていたわけではありません。
もうひとつ、星座の動きから吉凶を占うという、いわば東洋の占星術師ともいえる「宿曜師(すくようじ)」という専門家集団も存在していました。
両者は名目上、協力してカレンダーを作成していましたが、水面下では激しい権力争いを繰り広げ火花を散らしていたのです。
そんな知られざる「陰陽師VS宿曜師」の戦いについてみてみましょう。
「陰陽道」と「宿曜道」
まず、そもそも「陰陽道」と何なのでしょうか。
これは中国古来の「陰陽五行思想」をベースとした天文道の一種として、日本独自に発展したものです。
道教の方術や風水なども取り入れながら、やがて悪霊や凶事に対抗する呪術的な側面も強めていきます。
「陰陽寮」という国家機関が統括し、陰陽師は国家公務員として吉凶の判断や災厄を祓う儀式を行い、暦の作成に従事していました。
一方、「宿曜道」とは空海が唐より招来した密教に含まれる古代インドの占星術がもとになっており、各星座(星宿)の位置や動きから吉凶を占うものでした。
導入の経緯から、主に密教僧が宿曜を取り扱い、その専門家を「宿曜師(すくようじ)」と呼んでいました。
こちらは国家公務員ではありませんでしたが、密教のもつ強い呪力は朝廷にも大きな影響力をもつようになっており、当時のカレンダーに必要だった占術の面でも必要とされたのです。
いずれも「カレンダー作り」に欠かせないものだった
陰陽道も宿曜道も、吉凶を判断する当時のカレンダー作りには不可欠な技術と知識であり、両者が協力することが望まれていました。
しかし、それぞれの見解が対立することも珍しくなく、応和元年(963年)には村上天皇の「御本命供」という祭儀の開催日を決定するために、陰陽師と宿曜師との間で論争が起こったことが記録されています。
長徳元年(995年)には、時の一条天皇より、宿曜師は陰陽師と協力して暦の作成に当たるようにという正式な命令が出されますが、以降も両者の対立は続き、やがて宿曜師は造暦から完全に手を引くようになります。
宿曜道は徐々に没落していき、15世紀の初めごろには本拠となる寺院の消失によって歴史から姿を消してしまいますが、「宿曜」そのものは依然として暦のなかで命脈を保つことになります。
現代のカレンダーでも、最も詳しく暦注が記載されたものには「二十八宿」という項目で宿曜が残されており、宿曜師たちが伝えてきた知識の一端を垣間見ることができます。