法律により日本人を排除
日本人移民に対して、恐怖と怒りと嫉妬を感じていたアメリカの白人たちは、法律を使って日本人を排除することにしました。
まずは州ごとに排日移民法を成立。
これに対し、日本政府は日本人敵視の政策をやめてもらうように働きかけました。
1908年。
「日米紳士協定」が成立。
アメリカはヨーロッパからの移民を受け入れていましたが、日本はこれ以上移民を送らないと約束しました。
そしてアメリカに対してかなり譲歩して、約束を忠実に守りました。
しかし、もともとアメリカ人の怒りをもとに作られた法律だったため、「日米紳士協定」が結ばれても、その感情は収まりませんでした。
1914年。
第一次世界大戦勃発。
日本とアメリカを含む連合軍が勝利しました。
戦争後のパリ講和会議で、日本は「人種差別撤廃法案」を提案。
多数決で決まる会議で、多数の賛成を得ました。
しかし、アメリカ大統領ウィルソンは信じられないことを言い出しました。
「このような重大な問題は全会一致でなければ承認しない」と。
結局、人種差別撤廃法案は通りませんでした。
アメリカやオーストラリアは
「日本は白人中心の世界秩序を混乱に陥れるつもりだ」
として警戒するようになります。
「絶対的排日移民法」成立
1919年にパリ講和会議で「人種差別撤廃法案」が否決されたことを聞いたアメリカ人。
翌年、カリフォルニア州で「排日土地法」が制定されます。
この法律は、日本人移民の子どもはアメリカ国籍でありながら土地の所有を禁止されるというものでした。
これは、明らかに憲法違反でした。
さらに1922年。
アメリカの最高裁は、「白人とアメリカ土着人と、アフリカ人子孫以外は、アメリカに帰化できない」という判決を下しました。
これにより、すでにアメリカ市民として暮らしていた日本人移民の権利が剥奪されてしまいました。
1924年。
ついに「絶対的排日移民法」が成立。
アメリカ国家全体が日本人移民の排斥を決定したのです。
こうして1908年に結ばれた「日米紳士協定」は一方的に破棄されました。