<出典:wikipedia>
はじめに
和田義盛は三浦一族の庶家である和田氏の中心人物で、武人としても政務の面でも大いに貢献しました。
今回は、和田義盛の活躍と最期について見ていきましょう。
【三浦一族】 三浦一族とは、三浦半島(神奈川県)発祥の豪族です。 支配下にあった三浦郡から、その名を名乗っていました。1180年の源頼朝の挙兵から、平氏討伐、奥州征討にも参加した頼朝の側近です。 |
武人として華々しい活躍!!
和田義盛は、奥州討伐で藤原国衡を射貫いて討ちました。(『吾妻鏡』より)
源頼朝が鎌倉幕府を開いた際には、初代侍所別当に任命されました。
侍所とは、御家人の進退や賞罰を担当する役所ですから、いわば御家人統率の要。
和田義盛はこの重要なポジションに、自分より上の立場の者を押しのけて任命されたのですから、いかに頼朝の信頼が厚かったかが伺えます。
頼朝が亡くなり頼家の代になっても、義盛は力を発揮します。
頼家に対する反発で始まった有力御家人による合議制でも、義盛はそれに参加し鎌倉幕府の中心人物として活躍しました。
いとこの裏切り!!和田合戦が起こる!!
義盛は鎌倉幕府の創建に貢献し、大きな影響力を持っていた和田義盛。
鎌倉幕府二代執権の北条義時にとっては、最もいなくなってほしい人物だったのでしょう。
義時は何度も義盛を挑発します。
これに耐えかねた義盛は、いとこの三浦義村とその弟と共に挙兵します。
ところが・・・。
義村は土壇場で裏切り、北条氏に義盛の挙兵を密告。
こうして謀反人とされた義盛は、この和田合戦で命を落としてしまいます。
三浦義村が裏切ったワケ!!
同族でありながら、義村はなぜ裏切ったのでしょうか。
和田義盛は、三浦一族の庶家(分家のようなもの)。
それなのに、義盛は権勢をふるっていたため、三浦義村は脅威に感じていたのだと考えられます。
また、義村の娘は北条義時の息子(泰時)の妻であったため、姻戚関係であることも理由かもしれません。
義盛の死後、執権であった北条義時は、兼職するかたちで侍所別当となり、権力を一層強めました。
こうして義時は義盛を討ったことで、執権制度による北条専制を確立していきます。
そして、5代目執権の北条時頼に反北条の動きを警戒されたことで起こった宝治合戦で、三浦一族は滅ぼされてしまいました。