<出典:wikipedia>
和泉 式部 いずみ しきぶ
天元元年(978年)頃 – 没年不詳
はじめに
平安時代。
大江雅致の娘として、和泉式部は生まれます。
大江家は学者を輩出してきた家柄です。
和泉式部は少女時代から漢詩や和歌に触れて育った、いわゆる文学少女でした。
そんな彼女は、紫式部、清少納言と並んで、平安王朝の三才女に数えられることになります。
和泉式部は和歌の天才として当時から有名でしたが、中でも得意中の得意だったのが恋を題材にした歌。
それと同時に恋愛のエキスパートでもありました。
才能を認められて……
和泉式部が和泉式部と呼ばれるのは、彼女が和泉守道貞の妻だったから。
しかし、夫がいる身でありながら和泉式部は恋をします。
相手は冷泉上皇の息子・為尊親王。
和泉式部の歌人としての才能に惹かれて、親王のほうからアプローチがあったようです。
しかし、為尊親王はすぐに病死してしまい、親王との恋は僅か1年ほどで終わってしまいます。
それから1年後、和泉式部は新たな恋に落ちます。
相手は病気で死に別れた為尊親王の弟の敦道親王。
そのときの恋を綴ったのが『和泉式部日記』でした。
『和泉式部日記』の内容
旧暦4月。
和泉式部のもとに、敦道親王からの使いがやってきます。
その使いが持ってきたのは、橘の花だけ。
当時、貴族にとって和歌とは最も大切な教養でした。
敦道親王が使いに持たせた“橘の花”には、もちろん意味があります。
『古今和歌集』に「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という歌があります。
この歌になぞらえて、橘の花には「亡くなった兄のことを、一緒に偲びましょう」というメッセージが込められていました。
当時『古今和歌集』は丸暗記するのが良い、とされていました。
和泉式部は橘の花のメッセージに気づいて、返事の和歌を送ります。
そこから二人の恋は始まりますが、敦道親王との恋は僅か十ヶ月で終わりを迎えます。
敦道親王もまた、病に倒れ帰らぬ人となってしまったのです。
キャリアウーマンの道へ
敦道親王がこの世を去って2年。
和泉式部は藤原道長の誘いで、彼の娘である中宮・彰子に仕えることになります。
天皇の妻や娘などを主人として、後宮ではあちこちで競い合っていました。
仕える女房たちの仕事は多岐にわたりますが、その中で和泉式部は歌の才を買われ、迎えられたのです。
彰子のもとには、あの紫式部もいました。
他にも、清少納言や赤染衛門など、百人一首にも選ばれた一流の歌詠みたちと交流しながら、和泉式部はキャリアウーマンとしての道を歩んでいきます。
和泉式部が恋のエキスパートで和歌の天才だったのは、恵まれた才能と、心を震わせるような恋があったからなのでしょう。