北条政子(鎌倉時代)

Hojo_Masako

<出典:wikipedia

北条政子(ほうじょまさこ) 1157年~1225年

 

1157年。

北条政子は静岡県の北条時政の娘として生まれました。

21歳の時に、父親の反対を押し切って源頼朝と結婚すると、3年後。

源頼朝は平氏を倒すために兵をあげました。

このとき、父、北条時政も頼朝を助けて活躍。

平氏を滅ぼすことに成功します。

 

平氏を滅ぼした頼朝。

1192年に鎌倉幕府を開きました。

この間に、北条政子は4人の子どもを出産。

幸せな家庭を築きました。

1199年。

頼朝が急死すると、政子は尼になりました。

しかし、2代目将軍の頼家はまだ若く、責任は母である政子にのしかかってきました。

 

頼家は妻の父親を重用。

これにより、古くから仕えていた御家人の心が離れていってしまいます。

そのため、政子は13人の有力御家人の話し合いによって幕府の政治を行うことにしました。

これに怒った頼家。

兵をあげようとしますが、逆に将軍職を弟の実朝に奪われ、修禅寺に閉じ込められ殺されてしまいます。

 

しばらくすると、北条氏が有力御家人をつぎつぎと殺して、幕府の実権を握るようになります。

さらに、北条時政は妻の一族の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようと動きます。

これを知った、北条政子は弟の義時と力を合わせて計画を防ぎ、父を追放しました。

こうして、政子は泰時を執権の地位につけ実権を握るようになり、尼将軍と呼ばれるようになりました。

承久の乱に勝利する

政治の実権を北条氏に握られた3代目将軍、源実朝

1219年。

源頼家の子である公暁(くぎょう)に殺されてしまいます。

その公暁もまもなく殺され、源頼朝の血筋が途絶えてしまいます。

 

源氏の血が途絶えたことで、幕府が不安定になることを恐れた北条政子。

頼朝の遠い親戚でまだ2歳の藤原頼経を将軍に迎えいれます。

そして、後見人として幕府を支えようとします。

しかし、不安定な幕府を見逃さなかったのが、京都の後鳥羽上皇。

後鳥羽上皇はこの機に幕府を倒し、政権を取り戻そうとします。

1221年。

後鳥羽上皇が北条泰時を討つように命令を出すと、承久の乱が発生。

当時、幕府が実権を握っていましたが、それでも形式上は朝廷が国のトップ。

そこで、北条政子は武士たちに、こう訴えます。

 

皆の者、よく聞きなさい。
これが最後の言葉です。
頼朝公以来、幕府の御恩は山よりも高く、海よりも深いものなのです。
いま、後鳥羽上皇から義時を討てという道理に合わない命令が出されました。
頼朝公のご恩に報いるため、源氏三代にわたる地位を守るべきです。
しかし、上皇の命令に従おうというものがいるなら、それでも良いでしょう。
申し出て、今すぐ立ち去りなさい。

 

この演説のかいもあって、わずか1ヶ月で幕府が勝利します。

また、承久の乱により、北条氏の支配も確立し、幕府の勢いは西国にまで及ぶようになりました。

 

その後、政子は寿福寺で静かに暮らし、1225年に息を引き取りました。

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