<出典:wikipedia>
内村鑑三 うちむら かんぞう (1861-1930)
1861年。
内村鑑三は高崎藩(群馬県)の下級武士の子として江戸で生まれました。
身分は高くありませんでしたが、武士の長男として小さいころから儒学の教育を受けて育ちます。
1874年。
内村は東京外国語学校に入学。
3年後には、札幌農学校に入学しました。
札幌農学校はクラーク博士を教頭として開設された学校で、内村は第2期生でした。
内村が入学した時、すでにクラーク博士は帰国していましたが、聖書に基づく教育は多くの学生に影響を与えます。
儒学教育を受けた内村も、上級生から無理やりキリスト教徒にさせられました。
やがて内村は、札幌農学校を一番の成績で卒業すると、役人になりました。
しかし、すぐに役人を辞めてアメリカへ。
アマースト大学やハートフォード神学校で聖書などの研究をして、1888年に帰国しました。
不敬事件!教育勅語に礼をせず
帰国した内村は1890年に第一高等中学校の教師となります。
翌年1月。
学校の始業式で教育勅語を受け取る式典が開かれましたが、内村は1人だけ礼をしませんでした。
内村にとってはキリスト教の神のみが礼拝の対象だったのです。
このことが、「天皇に対して失礼だ」と問題になり、内村は学校を辞めさせられてしまいました。
学校を追われた内村は各地をめぐり、文章でキリスト教を広めようと考えます。
そして、『基督信徒の慰(きりすとしんとのなぐさめ)』や『余は如何にして基督信徒となりし乎(か)』など、キリスト教についての本を書きました。
1897年。
内村は新聞社「万朝報」の黒岩涙香(るいこう)に招かれ、ここに入社。
政治家や金持ちの不正を鋭くつき、足尾鉱毒事件についても農民の訴えを人々に知らせます。
1903年。
日本とロシアの間で戦争の危機が高まると、内村はキリスト教徒の立場から戦争反対を唱えます。
しかし、黒岩涙香が戦争賛成派に変わってしまったので、内村は「万朝報」を辞めました。
会社を辞めた内村は雑誌『聖書之研究』にさまざまな文章を書き、積極的にキリスト教を広めます。
そして1930年。
無教会主義の立場を取り続けた内村鑑三は、その一生を終えました。