太平洋戦争の名将|今村均

今村均

<出典:wikipedia

今村均 いまむらひとし
(1886年~1968年)

 

1886年。

今村均は宮城県仙台市で誕生。

父は判事で、代々仙台藩士の家柄でした。

19歳の時に天覧閲兵を見学に行った今村は、明治天皇の馬車に大勢詰め寄る様子を見て、国のため軍人として生きることを決意。

陸軍士官学校に入学します。

陸軍大学校では極めて優秀な成績をおさめ、卒業時には首席にまで上りつめました。

 

1941年。

太平洋戦争が勃発し、翌年。

今村均は第16軍司令官として「蘭印作戦」の指揮をとります。

蘭印作戦を成功させた今村は、オランダ領だったインドネシアジャワ島を占拠しました。

 

ジャワの統治をすることとなった今村が、まず行ったのがオランダにより収監されていた独立運動家の釈放でした。

このとき釈放された人のなかには、のちに初代インドネシア大統領になるスカルノもいました。

その後も今村は、現地民の生活に配慮した統治を実行。

それまでの日本軍はアジア占領の際に力で抑え込むことが多かったですが、今村の軍政は自由なものでした。

・各所に学校などの施設を建設
・インドネシアの独立歌の禁止を解除
・インドネシアの独立歌のレコードを日本で作り現地の人に配布
・元支配者のオランダ民間人も、自由に住宅地に住めるようにする
・捕虜となったオランダ軍人は敵対行動しない限り自由な交流を許可

今村の甘すぎるとさえ思える軍政は大成功し、ジャワの生活は天国のように快適なものでした。

しかし、日本政府内には今村の軍政に不満を抱くものが現れてきます。

加えて、このころ日本では衣料が不足し始めていました。

そこで、日本政府はジャワで生産された白木綿を輸出するよう、今村に求めます。

しかし、今村はこれを拒否。

白木綿の輸出はジャワの人々の生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで破壊すると考えたのです。

 

今村に拒否された日本政府は、政府高官を派遣してジャワの実情を調査。

調査団は、以下のように報告しました。

・原住民は日本人に親しみを寄せている
・オランダ人は敵対を断念している
・治安状況、産業の復旧状況がずば抜けて良い
・軍事物資調達の成果が良い

調査団は今村の軍政を絶賛。

しかし、政府の一部には不満を抱くものもいて、今村はニューブリテン島のラバウルへと送られます。

今村がいなくなると、天国のようだったジャワの暮らしは一変してしまったといいます。

ラバウルで自給自足を開始!!

1942年11月20日。

今村均は第8方面軍司令官としてラバウルに着任します。

 

このころの太平洋戦争では、アメリカ軍が勢いを取り戻しているところでした。

連合艦隊司令官の山本五十六と親交があり、戦局について話し合ったりしていた今村は、戦局を分析。

いずれ日本からの補給が途絶えることを見越して、自給自足の持久戦を考えます。

 

まずは日本から野菜や畑でも栽培できる稲の種子を持ち込み、焼き払ったジャングルで栽培を開始。

自ら率先してクワをふるいます。

これにより1945年には兵ひとりあたり200坪の耕地面積を開拓でき、最後まで7万人の将兵が飢えとは無縁の生活をおくれました。

 

また、今村は農地開墾と並行して要塞の構築も開始。

400機以上の空襲にも耐えられる地下要塞を作り上げます。

この要塞の中には、5000人以上収容可能な病院や発電設備、通信施設、兵器弾薬の生産工場までありました。

 

さらに今村は墜落した飛行機の残骸を集めて偵察機を3機作ってしまいます。

この偵察機はのちに不足していた薬品をトラック島から受け取り帰還。

アメリカ軍は「いるはずのない飛行機が飛んでいる」と驚いたようです。

 

「勝ち得ない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」

今村はこう語り、実際、自給自足により多くの日本兵を救ったのです。

 

今村が数年をかけて作り上げた要塞は強固で、アメリカ軍もラバウル攻略をあきらめます。

そして。

ラバウルの要塞はほぼ温存されたまま終戦を迎えました。

終戦。その後・・・。

1945年8月16日。

今村は終戦の公式文書を受け取り、訓示を発します。

「ラバウル将兵は今後も現地で自給自足の生活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減することをはかる。
我々の外地における最後のご奉公である」

敗戦のショックで軍紀が乱れた地域が多数ある中、今村の訓示を受けたラバウルの将兵たちは黙々と畑を耕しました。

 

この後。

今村は連合国から戦争指導者として責任を問われます。

このとき今村は、法廷で以下のように主張。

・敗者のみ裁き、戦勝国の行為に触れていない
・国際法に基づいていない
・日本軍首脳部に責任がある事柄について、下級者のものを罰している
・証拠能力の薄いただの伝聞を採用し、有効な証拠として扱っている
・戦時中の異常心理を無視して、平常の考え方のみで裁いている

今村は自分のためではなく、不当な裁判を受ける部下を救うために、これらの主張をしました。

 

【オーストラリア軍による裁判】

第8方面軍司令官のときの責任を問われ、今村は死刑になりかけます。

しかし、現地住民の証言などにより、禁錮10年の判決が下ります。

 

【オランダ軍による裁判】

第16軍司令官のときの責任を問われますが無罪となります。

 

今村がオランダ軍から裁判を受けているときに、かつて今村が軍政をしいたインドネシア住民たちが助命嘆願運動を行いました。

中心となったのは、今村が解放したスカルノ。

スカルノは今村が死刑判決を受けた場合の救出作戦まで考えていました。

これを聞いた今村は
「ありがたいが、私はその時は堂々と刑を受けます」
と答えて、救出を断ったと言います。

 

 

1949年。

オーストラリア軍の裁判より、禁錮刑となった今村は巣鴨拘置所に送られます。

しかし、今村は「自分だけ環境の良い東京にいることはできない」としてマッカーサーに直訴。

旧部下とともに服役することを望みます。

これを受け入れられ、今村はパプアニューギニアのマヌス島で刑を受けることとなります。

 

刑期を満了し、日本に戻った今村は、『今村均回顧録』を出版。

印税すべてを戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使います。

なかには遺族を偽ってお金を要求するものもいましたが、今村は
「戦争中に多くの部下を死地へ送った身。戦争が済んだ後は、黙って騙されなければいけません。」
といって、とがめることはありませんでした。

 

武士道精神を体現したかのような今村均は、1968年に82歳でその生涯に幕を下ろしました。

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