<出典:wikipedia>
仁徳天皇 4世紀末~5世紀
仁徳天皇が大王になる
4世紀後半。
仁徳天皇は応神天皇の子として産まれました。
応神天皇が亡くなると天皇の位をめぐって混乱しましたが、その後、仁徳天皇が16代天皇(大王)となりました。
仁徳天皇が即位した時は、大和政権にもっとも勢いがありました。
大和政権に従ってきた地方の豪族たちには、そのまま地方をおさめさせ、
それと同時に中央の役人にし、大王のもとで仕事を受け持たせました。
こうして、連合国家は徐々に中央集権国家に近づいていきました。
また、このころ、朝鮮から多くの人々が移り住んできました。
彼らは渡来人と呼ばれ、大きなため池を作る技術や硬い土器を作る技術、漢字などの文化を日本に伝えました。
仁徳天皇の政治
ある日、仁徳天皇は高台に登り村の様子を眺めていました。
すると、民家のかまどから食事を用意する煙が上がっていないことに気がつきます。
民の生活が、食事を用意できないほど苦しいことを知った仁徳天皇は、その後3年間税をかけませんでした。
仁徳天皇は大阪平野の開拓にも力を注ぎました。
朝鮮から伝えられた技術で、淀川の流れに沿って堤防を作り川の氾濫を防ぐと、その近くに耕地を増やしたのです。
また、天皇の力を示すために、前方後円墳という前が四角形、後ろが丸の形をしたお墓を大阪平野に作りました。
その大きさは、長さ480メートル、高さ35メートルと巨大で、小さな山のようでした。
周りは三重の堀で囲まれており、現在は大仙古墳と呼ばれています。
中国に使いを送る
卑弥呼と同じように仁徳天皇も中国と交流していたようです。
中国の歴史書によると、5世紀初めに「倭王讃」が貢ぎ物を持ってきていたとあります。
この「倭王讃」が仁徳天皇のことだったと考えれらています。
仁徳天皇のあと、「珍」「済」「興」「武」と呼ばれた4人の王が中国に使いを送ったようです。
それぞれが、各代の天皇だと考えられます。