<出典:wikipedia>
井上成美 いのうえしげよし
(1889年~1975年)
井上成美は宮城県仙台市の出身。
1906年に海軍兵学校へ入学し、トップクラスの成績を維持します。
1925年。
イタリア大使館付武官を務めることになります。
井上成美は非常に頭がよく、論理的。
イタリアで全体主義に感化されることはなく、むしろ否定的な立場を取りました。
また、日独伊三国同盟の締結や太平洋戦争開戦にも反対。
「イギリス・アメリカに勝てるか?」
という問いには、
「数理上勝てない。だから外交がある」
と答えています。
この回答に精神論はなく、あるのは客観的事実からの冷静な分析だけでした。
1937年。
海軍省軍務局長 兼 将官会議委員に就任。
当時の新聞は、海軍大臣の米内光政と次官の山本五十六と並べて「海軍省の左派トリオ」と呼びました。
アメリカとの戦争の気運が高まる
1941年。
第4艦隊司令長官に任命されます。
しかし、これは海軍大臣・及川古志郎が、井上成美を中央から遠ざけるためだったと考えられます。
このころ。
海軍は「第5次軍備補充計画」を立てます。
井上はこれを、「明治の頭で昭和の戦を戦うのか!!!」と痛烈に批判。
そして、『新軍事計画論』を提出しました。
ここには、以下の内容が書かれていました。
・広大な国土を持つアメリカを日本が屈服させることは不可能
・アメリカは日本国全土の占領も可能。首都占領も可能。作戦群殲滅も可能
・海上封鎖による海上交通制圧による物資窮乏に導きうる可能性が大
この洞察は、まさしく太平洋戦争の流れそのものでした。
太平洋戦争の幕開け
太平洋戦争がはじまると、井上は第4艦隊司令長官として出陣。
しかし、指揮の不手際が指摘されて、司令長官を辞めさせられてしまいます。
戦闘の現場を離れた井上は、内政面で活躍。
海軍兵学校校長となります。
井上はリベラルな立場を崩すことがなく、国内で敵国語の排斥思想が高まっても、英語教育を続行。
「世界を相手にする海軍士官が英語を知らないで良いわけがない」
と主張します。
日本軍の敗北が濃厚となった1944年。
井上は海軍次官となり、終戦工作に奔走します。
1945年5月。
海軍大将に昇進。
「負け戦 大将だけは やはり出来」という皮肉の混じった川柳を詠みました。
戦後は困窮しながらも、公の場に出ることはなく、静かに余生を送りました。