7世紀末~8世紀はじめ 万葉集が成立
山上憶良(やまのうえのおくら)は『万葉集』におさめられた「好去好来の歌」で日本という国を「皇神の厳しき国」であり「言霊の幸はふ国」であるといっています。
これは、神話の時代から王朝が絶えることなく続いていて、古代から歌がうたわれ、古代語で書かれた神話があるという意味です。
歌の前に平等だった日本
万葉集の大きな特徴は、作者が天皇、貴族、平氏、農民、遊女、乞食など、身分の差が見られないことです。
もちろん、男女の差別もなく、地域も東国、北陸、九州など各地方を含んでいて、文字どおり国民的歌集となっています。
では、万葉集に載せる基準はなんだったかというと、純粋に良い歌かどうかということだけ。
言霊が感じられるかどうかということのみを判断基準にしているため、身分も性別も関係なかったのです。
つまり、万葉集を作るにあたって日本人は「歌の前に平等」だったのです。
ユダヤ教、キリスト教においては「万人は神の前に平等である」という考えが広まっていました。
教会でどれほど高い地位を占めても神の目から見れば法王も奴隷も同じなのです。
また、ローマでは「法の前に平等」とされていました。
ローマ帝国の場合は多くの異民族がいたので、ローマの市民とするのに公平に扱う必要があり、その基準を「法」にしたのです。
近代の欧米諸国でも、「神」か「法」、この2つの平等をよりどころにしています。
ところが、このころの日本は言霊を操ることについて平等でした。
和歌の前に万人が平等に扱われたため、万葉集が万人の歌集になったのです。
歌聖として尊敬される柿本人麻呂
<出典:wikipedia>
万葉集に現れた歌聖として尊敬を受けている柿本人麻呂にしても山部赤人にしても、身分は高くありません。
とくに柿本人麻呂は、石見国の大柿の木の股から生まれたという伝説があり、これは素性の分からない下賤の生まれであることを暗示しています。
そんな人麻呂が和歌の神様として崇拝されているのですから、当時の世界から見ると凄いことなのです。
もっとも、大宝律令などにより身分制度が固められてくると、身分の低い人や問題のある人物の名前を出すことに躊躇し、「読み人知らず」となることも増えてきます。
それでも、和歌の前に平等という感覚は現在にもわずかに残っており、新年に皇居で行われる「歌会始」には誰でも参加することができます。
毎年、皇帝が歌のテーマを出題して、誰でもそれに応募することができ、作品が良ければ皇帝の招待を受ける。
このような優美な風習は、世界中探しても日本だけでしょう。