はじめに
私たちが現在イメージするところの「日本」は、時代によってその範囲が大きく異なります。
例えば沖縄はもともと「琉球」という独立国家でしたし、北海道もながらくアイヌ民族が先住する土地でした。
いわゆる「ヤマト王権」は古代からその勢力範囲を広げるための戦いを繰り返しており、特に関東以北への領土拡大を目指して「エミシ」と呼ばれる人々との間に緊迫した状態が続いていました。
もともとそこに住んでいたエミシの人たちからしてみれば、ヤマトの拡大政策は「侵略」以外の何物でもなく、しばしば大規模な抵抗戦が行われました。
エミシは勇猛果敢で地の利にも明るく、ヤマトの将兵は大いに苦戦します。
そして元慶二年(878)、一度はヤマトの政策に応じた東北のエミシたちが圧政に反発して蜂起するという「元慶の乱」が勃発したのです。
徹底した武力制圧を主張する中央政権。
ついに事態を終息させるべくある男たちが東北に派遣されます。
それが「反骨の貴族・藤原保則」と「丸腰の将軍・小野春風」です。
反骨の貴族、武力制圧に異議あり!
元慶の乱はもともと、前年の飢饉によって税を納めることが困難になったエミシを救済せず、さらに過酷な徴税を行うなどのヤマト側の圧政に端を発しています。
結果として重要な軍事拠点である秋田城が陥落、ヤマトの軍は敗走を余儀なくされます。
中央政権の意思としてはさらなる大軍を派遣して、東北地方のエミシを完全に従属させることでした。
この東北の戦乱を終息させるために派遣されたのが左中弁・藤原保則。
貴族でありながら反骨の精神と慈愛の心を併せもつ人物でした。
保則はかつて、財政難に陥っていた備中・備前の国司として赴任し、卓越した民政手腕で見事に経営を立て直した実績のある地方官でした。
その温かな人柄は庶民から熱烈に支持され、彼が任期を終えて都へと帰る時には沿道を人が埋め尽くし、泣いて帰京を引き止める者が後を絶たなかったと伝えられています。
そんな保則は、エミシたちにさらなる武力行使をすることを良しとはしていませんでした。
圧政支配を行うことには徹底して反対の立場を貫いたのです。
政治上の働きかけをメインとしていた藤原保則は、戦場で双方に矛を収めさせることができる武人として、一人の男を指名します。
それが鎮守府将軍・小野春風でした。
丸腰の将軍、エミシとの平和交渉を成し遂げる
藤原保則から戦乱終息のために白羽の矢を立てられた小野春風は、幼少時にエミシとの交流がある関東地方で暮らしていたとも伝えられ、エミシの言葉を操ることができたといいます。
また、対馬に赴任していた時には兵士の鎧の防御機能を高める工夫を行うなど、人命を尊重する武人としても知られていました。
そんな春風がエミシとの対話のため実行したことはなんと、武器を捨てて鎧兜を脱ぎ、丸腰のまま単身で交渉に赴いたのです。
この時の会談の内容は残念ながら記録に残っていませんが、春風の勇気と真心が伝わったからこそ、エミシの側も交渉に応じたのでしょう。
これを機に元慶の乱は収束へと向かい、指揮官自らが非武装で直接交渉するという史上まれに見る作戦が歴史に残ることになったのです。