<出典:THE PAGE>
本間宗久(ほんま そうきゅう)
1724年 – 1803年
昨今、ビットコインやブロックチェーンなどの言葉をよく耳にします。
こうしたブームから、投資や金融市場に関して興味を持つ方も増えてきているのではないでしょうか。
今回紹介する本間宗久は、そうした市場の分析において、神のごとき才覚を発揮して巨万の富を築いた天才相場師です。
非常にマイナーながら、興味深い人生を送った彼の生涯と才能について見ていきましょう。
本間宗久の人生
本間宗久は1724年、出羽国(現在の山形県)の酒田の富豪「新潟屋」の三男として生まれました。
若いときに江戸に滞在したことで刺激を受けたようで、酒田に帰ると父親に米相場への投機を進言します。
しかし受け入れられず、宗久が投機を行うのは父親の死後とその後継ぎである長兄の隠居後となります。
このとき、長兄は自身の子を後継ぎに指名していたのですが、勉強のため彼を奉公に出させている間の仮の新潟屋の主として宗久が任されます。
主となった宗久は、新潟屋の資金を元手に酒田の米相場に投機を行い、いきなり才覚を発揮し、新潟屋の財産を数万両単位で増やしました。
しかし、本来の主である長兄の子が戻ってくると経営面で対立し、宗久は本間家を追放されるという憂き目に合います。
逆境にもめげない宗久は、酒田を出て江戸に移り、江戸の米相場への投機を行います。
しかし、酒田で大成功したにも関わらず、江戸では投機は大失敗。破産するほどまでのどん底に陥ります。
普通ならばもう懲りて相場には手を出さない、となるところでしょうが、宗久は折れません。
今度は江戸よりも取引が盛んだった大坂・堂島の米相場で投機を行います。
ここでは江戸での失敗から学んだ宗久の才能が爆発し、「出羽の天狗」と称されるほどの大活躍を見せます。
50歳を機に江戸に移り住んだ本間宗久。
因縁の江戸での米相場に再度投機し、今度は大成功を果たし雪辱を晴らします。
また本間家との和解も成立し、以後は本間家と協力して諸藩に貸付を行ってさらに資産を増やしていったそうです。
その活躍ぶりは「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」「酒田照る照る 堂島曇る 江戸の蔵米雨が降る」などのような狂歌がはやるほどでした。
本間宗久の投資手法
新聞やニュースで、株価の変動の表として細長い長方形が日によって上下しているようなものを見たことがありませんか?
あれは「ローソク足」と呼ばれ、本間宗久が考案者であると言われています。
また、現在も株価などの売り・買いのシグナルとして使われる「三川宵の明星」「赤三兵」などの用語を考案した、いわゆるテクニカル分析の開祖であるとも言われています。
宗久は堅実派であり、心を動かさず確実に利益を確保していく投資手法であったと考えられています。
また、莫大な財産がありながら市場を操作しようという手法は一切とらず、常に流れを読むことに徹していた、とも伝えられています。
失敗から学び不死鳥のごとく甦る本間宗久の胆力には、現代人も多くのことを学べるのではないでしょうか。