大海人皇子をかくまい伝説となった吉野の国栖人

はじめに

壬申の乱直前。

後に天武天皇となる大海人皇子は皇位への野望が無いことをアピールするため、剃髪して出家し奈良の吉野へと下ることを宣言します。

しかし皇位を争う相手である大友皇子の軍勢に幾度も狙われ、危機に陥いりました。

そこで活躍したのが、吉野の地の先住民「国栖人(くずびと)」。

国栖人は大海人を助け、素朴ながらも料理を振る舞って精いっぱいのもてなしをしたとされており、この伝説は後にの謡曲の題材にもなりました。

 

今回は、そんな国栖人について、ご紹介したいと思います。

【謡曲】(ようきょく)
能の詞章をうたうこと。その詞章。うたい

国栖人とは

国栖人の祖先についての記述は古く、『古事記』の神代巻に遡り、最初の天皇である神武が吉野の川に至ったとき、出迎えに現れた在地の神がそうだとしています。

岩を押し分けて出現したことから「イワオシワク」と名付けられたその神が、国栖人の祖神とされているのです。

また、応神天皇が吉野に行幸した際、酒や歌で歓迎したことが記載され、山中ながらも都と行き来のできる距離であり、折に触れて国栖人たちが朝廷に特産物を納めに来るという記述があります。

このように、国栖人は太古から皇族を支援する氏族と認識されており、大海、皇子も同様に彼らの助けを得たものと考えられています。

国栖人と国栖奏

国栖人が大海人皇子を助けたという伝承の記憶は、「国栖奏(くずそう)」という舞楽によって現代にまで引き継がれています。

毎年旧暦の1月14日に行われるこの神事では、舞に加えて古事記をよく残した神饌に特徴があります。

いずれも国栖人が天皇や朝廷に捧げたとされる飲食物に由来しており、甘酒のような一夜酒や赤腹魚(ウグイ)、根芹や栗の実などが捧げられます。

これらは山間部においては心尽くしのもてなしであり、春の七草である芹は季節のもので、栗も保存が利くため調達も困難ではありませんが、冬場ということもあり川魚のウグイは捕ることも難しかったことが伺えます。

コイ科の魚であるウグイは大きく成長するため、山間部では伝統的に貴重なたんぱく源とされ、『延喜式』にも貢進物としてその名が登場しています。

そして、特に興味深いのが当地で「モミ」と呼ばれるアカガエルが供え物として用意されることであり、これは伝承では最高のご馳走だとされたものです。

当地の方言ではおいしくないことを「モミない」と言っており、アカガエルの味が美味の基準とされていたことをしのばせます。

天武天皇以降も持統朝の足袋重なる行幸や、南北朝動乱での遷宮など、吉野の民と皇室との深い関係が続くのでした。

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