「俺、天狗になる!」半将軍・細川政元という男

戦国時代の初期の武将・細川政元(1466年~1507年)は、変わり者として知られる室町幕府の守護大名です。
遺された彼の肖像画はいたって普通の見た目ですが、彼のユニークな行動を見過ごしてはいけません。
公家化しすぎた今川氏真、大内義隆と並び「戦国三大愚人」の一人と言われる細川政元。
でも彼は他の2人とは全く違う、斜め上をいく変人大名でした。

父に見込まれた少年・政元

細川政元の父親は、応仁の乱のときに東軍を率いた細川勝元です。
政元の幼名は名前からして頭の良さそうな「聡明丸」。
臨終の際の父親・勝元に、「この子がいれば細川家は安泰だ」とまで言わせたほどの聡明な男の子だったようです。

クーデターを起こして幕府の実質権力者に

細川政元は、本来、政務能力のある優れた人物だったと考えられます。
細川家という幕府の管領職の家に生まれ、室町幕府の第24、26、27、28代管領(かんれい)を務めました。
管領とは室町幕府の将軍に次ぐ最高の役職です。
政元は、幕臣の筆頭だったのです。

第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が病死した後の後継者問題で、政元は自分が推した足利義澄を将軍にすることができませんでした。
そこで、1493年に、将軍・足利義材(よしき)の京に不在中に、クーデターを起こして足利義材を追放し、
11代将軍として足利義澄を擁立しました。
つまり将軍の首のすげ替えです。
14歳の将軍義澄は、政元の傀儡(かいらい/操り人形)でしたから、政元こそ事実上の最高権力者となりました。

「半将軍」よりも、なりたかったもの

将軍よりも実質の権力を持っていた政元は、「半将軍」と呼ばれました。
しかし、彼が本当になりたかったのは権力者ではありませんでした。
目指していたのは、ずばり「天狗」!!

彼にはさまざまな奇行の記録が残っています。

・女を断っていた
・飯綱(いづな)の法、愛宕の法という狐の妖術を使った
・山伏のように修行し、陀羅尼(仏教の呪文)を唱えた
・鞍馬山に籠もって修行した
・将軍足利義澄の元服の儀式に後見として、烏帽子を被せる儀式で政元自身が烏帽子をかぶることを拒否したので、儀式が一週間延期となって大ひんしゅくとなった

周囲が引いてしまうような奇行のオンパレード。
全て山岳信仰、つまり天狗の術につながっていました。
そんな政元の邸宅周辺で怪鳥を見た、生首が宙に浮いていたなどの目撃談も逸話として残っています。
もしかすると、政元は本当に霊力を手にして、天狗にかなり近づいていたのかもしれません。

まだあるぞ、政元の奇行

彼は政務では非常に有能でした。
しかし、彼の気持ちは、どうしても修行に向いてしまいます。
彼はなにかと「仏門に入る」「修行の旅に出る」「諸国を歩いて回る」などといって都を出ようと試みます。
そのたびに、家臣や将軍までもが説得したそうです。
敵方を征伐している戦の最中にさえ突然「奥州(東北)に修行に行く!」と言い出して、大将の彼自ら陣を離れようとしたこともありました。
戦いの最中に自分探しの旅にでかけるという不思議大名具合はハンパではありません。

一方で彼はかなり攻撃的な性格だったようです。
元将軍の・義材が越中(富山県)で亡命政権を作った時に、彼に味方する比叡山延暦時を焼き討ちしてほぼ全焼させました。
織田信長が行った比叡山焼き討ちとは比べものにならないほどのヒドさだったそうです。

細川政元の最期

そんな政元は、修行のために女性を近づけず、子供はいませんでした。
代わりに養子を取りましたが、1人ではなく3人でした。
そして、それがもとで後継者争いが起きました。
最終的に政元自身も争いに巻き込まれ、1507年、政元が風呂に入っていたところを家臣に暗殺されてしまいました。享年42。

天狗になりたかった幕府の実力者・細川政元は、幕府を取り仕切る実力のある優秀な人物でした。
しかし、彼の情熱は、「天狗となる」修験道に注がれるばかり。
きちんとした後継者決定の対策を講じていなかったことが、あだとなって身を滅ぼしてしまったようです。