しあわせものがたり--地獄で残した経家の遺書

吉川経家という名将が、子供に残した短い遺言があります。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が1581年におこなった、「鳥取城餓(かつ)え殺し」の時のものです。
この戦いは、織田信長の中国攻めの中で最も悲惨で、その凄惨さゆえに大河ドラマでも再現されることのない戦いです。

死を覚悟して入城した新城主

織田信長の命を受け、羽柴秀吉が中国攻めを開始。
恐れをなした毛利方である鳥取城の城主・山名豊国は、家臣が止めるのも聞かず早々に降伏してしまいました。
信長に従いたくない豊国の家老たちは怒り狂って城主を追放し、毛利に要請して代わりの城主を迎えました。
毛利元就の息子で、吉川家の養子となっていた吉川(毛利)元春が代理城主として派遣したのは、武勇にすぐれた吉川経家でした。
彼は死を覚悟し、入城の際に自分の首桶を持参しました。
それを見た家臣たちは「今度こそ骨のある城主がやってきた」と喜んだそうです。

限られた兵糧での籠城

新城主・経家は城内の兵に加え、周辺の農民兵を集めましたが、人数はたった4千人。
秀吉側の2万人とは比較になりません。
こうなっては籠城戦しかありませんが、城内の兵糧は通常時の3ヶ月分のみ。
農民兵が加わったことで、もっと早く食料が尽きてしまいます。
しかも、城下の米は、全て秀吉の命により高値で買い占められ、買い足すことも出来ません。
鳥取城の備蓄用の米でさえ、高値に釣られて城兵たちが売り払っていた始末で、兵糧は1ヶ月持つかどうかでした。

城を包囲した秀吉軍は、むやみな攻撃はせず城への補給路を全て断ち、時が経つのを待っていました。
兵糧攻めは、無駄な命を落とさず最少の犠牲で済む戦い方だと言われますが、それは攻撃する方の側の言い分です。
攻められる城内の兵たちにはこの世の地獄が待っていました。

この世の地獄

予想通り、兵糧はすぐに尽き、2ヶ月も経つと城内の馬、牛、犬、猫、蛇、蛙、草や木の根にいたるまで食べ尽くされました。
3ヶ月目になると餓死者も出現。
「子は親を食し、弟は兄を食した」と記録があります。
飢えた者たちは極限状態の中、餓死者の屍肉までも争って食べたのです。

しかし、それでも城主・経家は降参しませんでした。
城を任された彼は、そうあっさりと城を明け渡すわけにはいかなかったのです。
毛利家への責任と城内の惨状との板挟みに悶絶したことでしょう。

あまりの空腹に、痩せ衰えた人々が、城外を包囲する柵から腕を伸ばし敵軍に助けを求めましたが、非情な秀吉軍はその彼らに鉄砲を撃ち込みました。
そうして撃たれた者は別の者に肉を食べられ、まだ息のある者までナタや小刀でバラバラにして食べられました。

籠城4ヶ月目となり、ついに経家は降伏し、自分の命と引き替えに城内兵の命を助けて欲しいと秀吉に申し出ました。

開城と経家の申し出

経家の才覚を高く評価する秀吉は、彼を殺すつもりはありませんでした。
そもそも経家は、頼まれてやってきた代理城主。
秀吉にしてみれば、悪いのは戦いを選んだ家老たちであって、彼らが自害すればそれでよいと経家に伝えました。
ところが、経家はそれを拒否し、自分の命を差し出すと言ってききません。
経家の責任感に困った秀吉は、信長と相談の結果、しぶしぶ経家と2人の家老の首で鳥取城内の人々を助けることにしたのです。

経家のしあわせものがたり

自決にあたって吉川経家は5通の遺書を残しました。
そのうち3通が現存しています。
経家の主君・吉川広家宛には、「毛利と織田との戦いで死ぬことは末代までの名誉」だと。
家臣宛には苦労をねぎらう言葉を残しました。
そして、最後の1通は彼の子供たちへ。
難しい漢字を使わず、仮名を多用してこのように書かれていました。

鳥取のこと、夜も昼も200日こらえたのですが、ひょうろうが尽き果てました。
そこで、私一人が御用にたって皆を助け、吉川一門の名を上げます。
このしあわせものがたりを聞いてくださいね。

つね家

文末には子供たちひとりひとりの名前が書き連ねられていました。
原文には脱字があり、ボロボロの経家が極限状態で書いたということが生々しく伝わります。

届けられた経家の首を見た秀吉は、男泣きしたそうです。
その首は信長の元へ送られ、丁重に葬られました。

この話は意外と知られていませんが、
鳥取の餓え殺しののちの自刃を、「しあわせものがたり」と説明した父親の、子供たちへの愛情に胸を打たれない人はいません。