飛鳥時代(7~8世紀)
大和政権は次第に領地を広げ、九州から東北までを統一。
広大な土地を支配するために、大王のサポート役が現れます。
その中で特に力をつけたのが、財務担当の蘇我氏と軍事担当の物部氏でした。
両者は政治運営のライバルとして争うようになります。
仏教が伝わってくる
そんな中、大陸から仏教が伝わってきます。
もともと大陸と積極的に交流していた蘇我氏は仏教の受け入れを強く勧めます。
しかし、物部氏はこれに反発。
両者は大きく争いますが、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして決着を迎えます。
物部氏を滅ぼした蘇我馬子は592年に崇峻天皇(すしゅんてんのう)も暗殺。
次の推古天皇のサポート役を聖徳太子にします。
聖徳太子は儒教や仏教の思想を取り入れ、冠位十二階や十七条の憲法を作って朝廷制度の礎を築きました。
蘇我氏の権力増大と中臣鎌足の改革
聖徳太子と蘇我馬子がこの世を去ると、馬子の子どもである蝦夷(えみし)、さらにその子ども入鹿(いるか)が政権を独占しようとしました。
これに反発したのが、中臣鎌足。
645年に中大兄皇子とともに、蝦夷・入鹿を倒しました。
中大兄皇子と中臣鎌足は中国の律令制度をもとに、天皇中心の中央集権国家を目指しました。
都を大阪の難波に移すと、改新の詔(かいしんのみことのり)という政令をだし、公地公民制や班田収授法などを定めました。
673年になると天武天皇が即位。
天武天皇は一人の大臣もおかず、皇子たちとともに政治を行い、豪族を支配しようとしました。
つぎの持統天皇もこれを受け継ぎ政令を施行するとともに、藤原京をつくり都を移しました。
続いて文武天皇は藤原不比等らとともに大宝律令を制定。
これにより日本は刑法などを整えた律令国家になりました。
飛鳥時代の服装
<出典:彦左の正眼!>
【貴族の男性】
身分によって衣服の色や持ち物なども決められていました。
頭には黒い冠。
上はコートのように長くゆったりとした服を身につけ、腰のあたりでひもで結んでいました。
下は、ズボンのような袴をはいていました。
【貴族の女性】
上は、ゆったりとした色のついた服。
下は縦じま模様の裾の広がったスカートのようなものをはいていました。
【庶民の服装】
農民など、一般人の服装は弥生時代からあまり変化しませんでした。
シンプルで色のついていない、白い布の服を着ていました。
飛鳥時代の食事
飛鳥時代の食事は階級によって大きく違っていました。
貴族は真鯛、アワビ、鮎、古代チーズなど様々なものを食べ、栄養の取りすぎで成人病になることもありました。
下級役人は玄米を主食とし、おかずに味噌汁、きゅうりの塩図家、かぶの酢の物、いわしの煮付けなど。
お酒も飲んでいました。
庶民は玄米に塩、海草の味噌汁、ゆでた青菜や山菜などを食べていました。
弥生時代からあまり変わらず一汁一菜が基本で、栄養失調で倒れる人も多かったです。
また、仏教の影響で肉が禁止されることもしばしばありました。
飛鳥時代のキーワードチェック
【冠位十二階】
603年、聖徳太子によって定められた制度。
徳・仁・礼・信・義・知の六つをそれぞれ大小に分けて、12個の位を作りました。
これまでのように血統で位が受け継がれるのではなく、個人の功労に応じて位が決まるようになったので、優秀な人材が昇進できるようになりました。
ただ、皇族や蘇我氏は適用外でした。
【十七条の憲法】
日本最初の成文法。
天皇への服従や、不要な争いを避けること、仏法僧を敬うことなどを強調し、役人たちへの心構えを説いた。
【公地公民】
皇族や豪族が個別に土地と人民を支配することをやめさせ、全て天皇のものとする制度。
公民は戸籍によって管理され、租(米)・庸(布)・調(特産物)を税として納めました。
【班田収授法】
6歳以上の男女に田んぼを支給し米を作らせる制度。
男子には約23アール、女子には約16アールを与え、税を納めさせました。
【遣隋使】
当時の中国は隋という国が支配しており、隋に行って文化を学んできた人たちを遣隋使と呼びます。
遣隋使により律令制度などの知識が入ってきて、日本でも刑法や服務規程を定めた大宝律令が完成しました。
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