平安時代
道鏡に主導権を握られていることが気に食わなかった藤原氏。
称徳天皇のあとに光仁天皇を擁立することで、道鏡の力を排除することに成功しました。
光仁天皇は律令国家を取り戻そうとして、政治と宗教を分け、僧侶の監督を強化し、行政の簡素化を進めました。
光仁天皇の死後は、桓武天皇が即位しました。
光仁天皇がいくら律令国家を取り戻す政策を進めても、奈良にはまだまだ寺院や貴族の力が残っていました。
そこで、桓武天皇は784年に都を長岡京に移しますが、長岡京の責任者“藤原種継”が暗殺されてしまいます。
事件に関与したのは大友氏や佐伯氏などの旧豪族。
それに加え、早良親王にも事件関与の疑いがかけられました。
早良親王は無罪を主張し続けましたが聞き入れてもらえず、淡路島に流される途中で亡くなってしまいました。
相次ぐ不吉な事件
早良親王の死を機に、桓武天皇の周辺では不吉な事件が相次ぎました。
788年、妻の藤原旅子が病死。
789年、実母の高野新笠が死去。
790年、皇后の藤原乙牟漏と夫人の坂上春子が死去。
天然痘という疫病の流行。
天候不順による飢饉。
「これらの事件は、早良親王が怨霊となって災いを起こしているのだ!!」
そう考えた桓武天皇は、怨霊を鎮めるため、794年に都を平安京に移しました。
平安時代の幕開け
8世紀後半、農村では重い税金から逃れるため、農民の逃亡が相次ぎました。
また、戸籍をいつわって税負担を軽くしようとする農民も急増しました。
そのせいで土地は荒れ財源が不足。
そこで桓武天皇は、792年に軍事の得意な少数精鋭部隊を作って農民から兵役の義務をなくしました。
また、805年には平安京の建築を途中でストップして、農民の負担を軽くしました。
823年になると税の徴収方法を変え、土地単位で税を徴収しはじめました。
しかし財政はますます苦しくなっていったため、天皇や皇族、官人は直接土地を持って収入を得るようになりました。
こうして、天皇中心の律令制度は財政面でも崩れていきました。
再び藤原氏の台頭
9世紀はじめまでは桓武天皇やその次の嵯峨天皇が権力を握り、天皇中心の律令国家を取り戻そうとしましたが、徐々に藤原氏が台頭。
藤原冬嗣は天皇の機密を扱う責任者になり、力を手に入れました。
藤原冬嗣の仕事を引き継いだ藤原良房は、政治を自分の思うように動かし始めました。
良房は対立する貴族を排除し、朝廷での高官職を藤原氏が独占。
天皇と親戚関係になり、自分の所有する土地も広げていきました。
さらに良房は、子どもの基経を天皇サポート役“関白”という役職にして、力を手に入れました。
基経が死ぬと、藤原氏と外戚関係がなくなった宇田天皇は、摂政や関白の役職をなくし、菅原道真を重用するようになりました。
道真は後世に学問の神様と呼ばれるほど賢い人物で、宇田天皇や次の醍醐天皇のもとで活躍しましたが、901年、藤原時平の策略で左遷されてしまいました。
道真を左遷し再び権力を握った藤原氏。
藤原時平の弟、忠平が摂政・関白の地位につき政治の実権を握りました。
その後、敵対勢力を排除し、摂政関白の地位を藤原氏が独占するようになりました。
道長の時代になると、藤原氏は全盛期に突入します!!
道長は4人の娘に天皇の子どもを産ませ、天皇の祖父として50年間、政治を支配しました。
ちなみに、天皇家と藤原氏の政権争いのもとで、各地の統治方法も大きく変わっていきました。
貴族の圧力と私有地の増加
8世紀~9世紀。
墾田永年私財法によって、力のある貴族や寺院が次々に土地を開拓し、さらに力をつけていきました。
また、開拓した土地には税金が課されますから、政府の財政も少しはマシになってきました。
貴族や寺院が強大になると、「税を免除しろ」という圧力をかけるようになりました。
この時、政権は藤原氏が握っていましたから、自分の利益を拡大するために税を免除する制度を作りました。
税を免除してもらえる寺院や貴族が現れると、農民や領主はそこに土地を譲ってしまいました。
それにより農民は少額の税を貴族や寺院に払うだけでよくなり、国には税を納めなくなったのです。
こうして、国家が介入できない土地がどんどん増えていきました。
そして、政府の力が弱くなり社会が荒廃していきました。
社会が荒れると、自分の土地を自分で守ろうとした豪族や有力農民は、武装して弓矢を持ち、馬に乗って戦う武士になりました。
やがて、武士同士が手を組んで大きな集団になり、地方武士の力が強力になっていきます。
そして武士は、“承平・天慶の乱”を鎮圧するほど力をつけました。
この事件により、武士の力を知った朝廷や貴族たちは、武士を警護や治安維持に用いるようになりました。
強力な仏教勢力
さて、貴族だけでなく武士の力も強くなった9~10世紀。
貴族、武士の勢力に加えて、もう一つ厄介な勢力がありました。
それが墾田永年私財法で力をつけた寺院の僧侶たち。 僧侶は武装して国司と争ったり、朝廷に大勢で押しかけて自分たちの主張を通そうとしました。
僧侶たちの力と勢いはすさまじく、当時権力を握っていた藤原氏でさえ迂闊に手を出せませんでした。
時は流れ天皇中心の政治に!!
天皇、貴族、武士、僧侶。 様々な勢力が入り乱れたまま時代が流れていきます。
1068年!!
後三条天皇が即位すると、血縁関係がない藤原氏の力は弱くなっていきました。
後三条天皇は即位したとき、すでに34歳でした。
政治に対して熱い情熱をもち、貴族に遠慮することなく堂々と政治を実行しました。
自分のやりたいように政治をするには、僧侶の脅威から身を守らなくてはいけないので、武士の力を借りるようになりました。
次の代は白河天皇。
白河天皇は後三条天皇の意志を引き継ぎ天皇中心の政治を行いますが、途中で天皇の位を8歳の子どもに譲りました。
当然、まだ幼かった子どもには政治を運営する能力がないため、白河天皇は白河上皇となって政治を支配。
上皇は天皇による任命の手続きを必要としなかったため、法と慣例にこだわらず政治ができ、他の貴族の力を抑えるのに有効だったのです。
その後、白河上皇は孫、ひ孫が天皇になった40年間、上皇として政権を支配することになりました。
上皇の制度は100年ほど続きましたが、のちに大きな争いを生みます。
源氏と平氏 強力な武士の登場
1156年。
鳥羽上皇と崇徳天皇は、新たな天皇の座を巡って争います。
この争いは貴族や武士を巻き込み、大きな戦に。
ここで活躍した源氏と平氏という武士は、大きな力を身につけることになります。
1159年。
源氏と平氏が対立し争いを始めました。
これに勝利した平氏のトップ“平清盛”は娘に天皇の子どもを産ませることで政権を握り、清盛の子どもたちで高官の位を独占しました。
しかし、平氏の独裁政治が進むと利権を奪われた貴族や寺院、地方武士が反発。
平氏は滅ぼされ、時代は鎌倉時代へと移っていきます。