古墳時代のくらし・服装・食べ物を解説

目次

古墳時代(4~6世紀頃)

紀元前1世紀ころ。
日本には小さな国が約100個ありました。
それぞれの国は独自に中国と交流し、文化や技術を取り入れていました。

2世紀後半になると国同士の争いが激しくなります。
何年も争いを続けましたが、卑弥呼という女性を連合国の王様にすることで争いが収まり、卑弥呼中心の連合国家“邪馬台国”ができます。

3世紀になると、各地の権力者が力を示すため大きなお墓“古墳”を作るようになります。
この文化は7世紀ころまで続き、全国各地に200個以上作られて古墳時代の名前の由来にもなりました。

大和政権の誕生

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4世紀になると、大和政権が現れます。
大和政権は大王(おおきみ)をトップとした連合国家で、各地にある小国を統一していきます。
しかし、国が大きくなると大王だけでは全てを管理しきれません。
そこで、外交・軍備・会計・土地管理など様々な役職が生まれ、統治体系の基礎ができてきます。

ちなみに、このころはあくまでも連合国家。
小さな国が大和政権の管理下に置かれていただけで、それぞれの国が独自に地域をまとめていました。

朝鮮の戦乱と日本技術

古墳時代の技術

5世紀になると、飢餓や戦乱で苦しんだ朝鮮の人々が日本に逃れてきます。
彼らは政治運営・鍛冶・武器製造・土木・建築・製陶・動物の飼育など様々な技術をもっていたため、大和政権は積極的に受け入れます。
これにより大和政権の文化は大きく発展し、次第に国としての基礎ができてきます。

古墳時代のくらし

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古墳時代になると支配者である豪族と、その他の民衆で生活に違いが表れます。

民衆は集落に竪穴住居や平地住居、高床式倉庫を作って住んでいました。
それに対し豪族は、集落から離れた場所に柵や壕を張り巡らせた居館を作って生活をしていました。
居館は祭りを行ったり、余剰生産物を蓄える役割もありました。

民衆の住居の壁にはカマドができ、少ない燃料で料理できるようになりました。
また、鉄製の農具も普及し、生産性があがりました。

古墳時代の服装

古墳時代 食べ物

男性:衣と乗馬ズボン風の袴
女性:衣とスカート風の裳

どちらも、上下に分かれた服を着ていました。

古墳時代の食べ物

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弥生時代に広まった稲作が、より大規模で行われるようになります。
お米をカマドの強い火で炊くようになり、美味しく炊けるようになりました。

木の実も相変わらず重要な栄養源。
アク抜きしてクッキーのように焼いて食べます。

大きく変わったのが加工食品の生産。
日本は高温多湿で食べ物が腐りやすいため、塩漬けにして長持ちさせるようになります。
この文化が、のちに味噌や醤油、漬物、塩辛につながります。
干物や燻製といった工夫もありました。

古墳時代のキーワードをチェック

【邪馬台国】
約30ヶ国からなる連合国家。
呪術的な力をもつ卑弥呼が国をまとめ、中国とも交流。
身分制度や税制、市などもありました。

【古墳】
3世紀後半~7世紀につくられた権力者のお墓。
3~4世紀の古墳には鏡や玉、剣など呪術的なものが埋葬されていたため、天候を占う司祭者が力を持つようになったと考えられています。
しかし、5世紀ころの古墳には馬具や鉄製の武器が一緒に埋葬されていることから、軍事的指導者が力を持ったと考えられています。
古墳には、前が四角形で後ろが丸の前方後円墳、両方とも四角形の前方後方墳があり、大きいものは486メートルにもなります。

【大和政権】
大和政権はもともと邪馬台国だったという説があるが、はっきりしたことは分かっていません。
大和政権のトップ“大王”が、のちに天皇と呼ばれるようになっていきます。

>>弥生時代の流れ

>>飛鳥時代の流れ

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