自由民権運動が激しくなったため、その勢いに押されて政府が大日本帝国憲法を制定した!
一般的にはこのように言われていますが、実はもう一つ大きな理由があります。
当時の日本は江戸時代に結んだ外国との不平等条約に悩まされていました。
それを解消するためには、日本を一人前の法治国家として認めてもらわなくてはいけません。
そこで、政府は大日本帝国憲法を発布したのです。
憲法をつくるにあたり、のちの初代内閣総理大臣、伊藤博文が欧州に渡って憲法の調査を始めます。
そして、当時世界一の憲法学者だったドイツ・ベルリン大学のグナイストの助言に従い、旧プロイセン王国の憲法をもとに新憲法を作ることにします。
プロイセン王国は、以下の点で日本と似ていました。
・単一民族の国家である
・力で成り上がった者は「皇帝」になれるが、「国王」にはなれない
国王という地位は、日本でいう天皇に似ており、憲法作成におおいに参考になりました。
ところが、大日本帝国憲法には「総理大臣」の言葉も「内閣」の言葉も出てきませんでした。
これは、天皇の権力を保つためで、グナイストの「あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であり、それを首相に譲ってはいけない」という助言があったためです。
憲法の欠陥。のちに大きな問題発生!!
憲法に首相の規定がないこと・・・。
これが、のちに大きな災いをもたらします。
昭和になると軍部の力が強くなってきます。
そして、この大日本帝国憲法の欠陥に気づいてしまうのです。
彼らは、「我々は天皇に直属するのであって、政府の指図を受けなくてもいいのだ」と主張しはじめ、軍のことに政府が口出しできなくなります。
しかも、大日本帝国憲法は“不磨の大典”とされていました。
これにより、大日本帝国憲法の条文を改正することはほとんど不可能でした。
今日の日本国憲法も長い間改定されていませんが、本来憲法は時代に合わせて変わっていくものです。
西洋諸国を見ると数年に一度は手を加えています。
それが、不変の憲法となってしまった時点で、昭和の悲劇が決まってしまったのかもしれません。