室町時代|1334年 建武の新政

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源頼朝が鎌倉幕府を開いてから140年ぶりに政権が朝廷に戻ります。

宋学を学んでいた後醍醐天皇は、政治を武士に任せるのではなく、あくまでも天皇みずからが「武」を握るという形を作ろうとします。

ところが、後醍醐天皇の恩賞の与え方が恣意的で、天皇気分によって行われたため、すぐに崩壊しはじめます。

 

この頃、「女謁」という言葉がありました。

これは、女が口を出して恩賞を左右するという意味です。

当時、後醍醐天皇の寵愛が深かった阿野廉子(あのれんし)という側室の意見が、恩賞の大きさを変えてしまっていたのです。

家柄重視の不公平な恩賞

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そもそも、建武の新政の理念そのものも、時代に合っていませんでした。

源氏と平氏の争い以降、武士たちが政権を握っていました。

今回、朝廷が政権を取り戻したのも、武士の働きが大きかったためです。

しかし、後醍醐天皇は天皇中心の政治ができるようになったのは宋学のおかげで、武士は見下すべき存在だと考えていました。

もっといえば、武士がいない世の中を理想としていました。

だから、建武の新政の最大の立役者である楠木正成でさえ大した恩賞を貰えませんでした。

今回、例外的に恩賞を貰ったのは、足利尊氏と新田義貞でした。

この二人は出自が源氏だったため、家柄を重んじた後醍醐天皇はこの二人に大きな恩賞を与えたのです。

 

系図を見てみると、足利家は八幡太郎源義家の子の次男義康の子孫です。

一方、新田家は長男義重の子孫でした。

長男優位の風習からすれば新田家が上でしたが、新田家は田舎の豪族。

足利家は代々北条家から嫁を取り、先祖の妻には源頼朝の義妹もいました。

さらに祖母は六波羅探題北条時茂の娘で、母は藤原氏出身の家柄。

妻は鎌倉幕府最後の執権赤橋守時(あかはしもりとき)の妹。

こうした、家柄のおかげで足利尊氏は武士の中で最もたくさん恩賞を貰います。

 

しかし、実際、足利尊氏は大した活躍をせず、ぐずぐずしていたら官軍に討伐されていたところでした。

それに比べ、新田義貞は鎌倉覆滅、楠木正成にいたっては鎌倉幕府滅亡のきっかけを作った重要人物。

この二人の恩賞が少ないのは、あまりにも不遇な扱いでした。

しかも、前線で戦った武士たちの恩賞が僧侶や女官や踊り子よりも少なかったため、武士の不満すぐに爆発し後醍醐天皇の政治はすぐに崩壊してしまいます。