源頼朝は宮廷に対しては従順な態度をとって衝突を避けていました。
1185年に義経追討の名目で守護・地頭を設置したのは、実質的には日本支配をしていながら、公家を立ててのことだったのです。
そして、問題が起こるたびに頼朝自身が従来の慣習を参考に判断していました。
この慣習主義を、しっかりと文章にしたのが御成敗式目です。
1232年に北条泰時が成文化。
「神を尊び、仏を尊べ」など、五十一カ条を提示します。
これは武士たちに非常に効き目がありました。
その理由に当時の武士たちが納得できる内容だったことと、もともと頼朝が尊敬されていた要因に裁判が公平だったことがあげられます。
御成敗式目の制定により、頼朝以来の慣習と武家の目から見た道理がまとめられたのです。
2つの法律で動き始めた日本
北条泰時は、
「京都には律令があるが、それは漢字のようなもの。御成敗式目は仮名のようなものなので、コレが制定されたからといって律令が変わるわけではない」
とはっきり言っています。
しかし、当然、律令と違うところもでてきます。
なので、このときから日本は二重法制度の国になったのです。
8世紀の初めに定められた律令。
これらは太政大臣をはじめとする官位や名目を定めており、この時代も残っています。
しかし、律令はもともとシナの模倣から生まれた借り物でした。
なので、あまり効果がなく、宮廷から命令があっても触れ流しというケースが多数ありました。
それに対し、武家を実際に支配した御成敗式目は、みんな納得ずみで決めたものなので、内容は簡単だけど生活に密着しており、効果がありました。
この二重制度はこの後の歴史にも影響を与えます。
鎌倉時代には律令はただの建前で、実際は御成敗式目が全国を支配。
しかし、いったん建前のことになると律令がものを言う場合もあるという感じでした。
明治維新は実質的には革命でしたが、眠っていた律令を復活させるという形だったので、国家としての断絶がないんです。