明治時代の服装
<出典:風俗博物館>
明治時代のはじめ。
日本人は着物を着て生活していました。
現在、着物を着るのは窮屈で大変なことですが、実は当時の人たちも同じように感じていました。
そのため、着物は基本的に羽織るように着ており、男性も女性もはだけて肌が見えていました。
「このような様子では、海外から野蛮な国だと思われる。」
そう感じた明治政府は、裸体を取り締まり始めました。
同じ頃、上流階級の中では洋服の着用が増えてきました。
まずは、官僚の制服が洋服となり、少しして、女性も洋服でパーティーを開くようになりました。
ちなみに、明治政府が洋服を普及させた背景には、不平等条約の解消という目的がありました。
当時、洋服は高価だったため庶民は着物のままでしたが、戦争で布が不足し始めると、より少ない材料ですむ洋服が普及していきました。
平安時代から宮廷で女性がが袴をはくことがありましたが、明治には一般婦人も袴を着用しはじめました。
着物と違ってはだけて太ももを露出しなくてすむため、袴が推奨されたのだと考えられます。
明治時代の暮らし
ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする
「文明開化」の名のもとに急激な近代化が進められましたが、そうはいっても庶民に適応できるだけの金銭的余裕はありませんでした。
なので、服装は着物で、風呂は今までどおり銭湯通いでした。
ただ、ランプやマッチなど便利な道具はすぐに取り入れられ急速に普及していきました。
一方、鉄道技術や郵便制度などのインフラも整い、経済の発展に大きく貢献しました。
教育に関しては、今まで地域にあわせて行われていましたが、明治政府が画一的な教育制度を実施したため様々なところで歪みが生じてしまいました。
明治時代の食事
明治初期になると、上流階級の人たちが洋食を取り入れはじめます。
当時、西洋文化は優れているという風潮があったため、福沢諭吉は奇妙に感じながらも作法を紹介。
洋食をアレンジした牛鍋(すきやき)が流行します。
ただ、洋食は高級で、床に座って食べる日本の風習と合わなかったため庶民に普及しませんでした。
明知中期には中流階級にも洋食が広まりました。
広まった理由は、簡単なこと、酒の種類が多いこと、嫌いなものは食べなくて良いこと、形式ばらず自由に会食できることなどが挙げられます。
このころ、洋食をアレンジしたフライ・油料理・牛豚料理が現れてきました。
また、ちゃぶ台ができ、家族みんなで同じテーブルを使う習慣が生まれました。
明治後期になると、お米に合うおかず、箸でも食べられる、栄養価が高いとして、庶民にも洋食が普及します。
中でも、大きく変化したのが調味料。
香辛料やソースが使われるようになりました。
ただし、普段の食事は和食中心のままで、洋食はたまに食べるという程度でした。