日本弱体化。アメリカの脅威を取り除け
1854年。
ペリーが日本にやってきたことで、日本の鎖国体制は終了します。
この時点で、日本は技術的に後進国。
しかし、明治維新が起きると日本は急速に力をつけていきます。
そして、1905年。
明治維新からわずか50年で、日本は白人大国ロシアを打ち破ります。
この偉業の秘密はなんだったのか??
しばらくして諸外国は、教育勅語による国民の精神性にあることを知りました。
1941年。
太平洋戦争がはじまります。
この戦いで、日本は予想以上の強さを見せました。
太平洋戦争が終わると、勝利したアメリカは「日本が2度とアメリカの脅威にならない」ように占領政策をすすめます。
占領政策により教育勅語は廃止。
日本人に「教育勅語のせいで日本が軍国主義になった」というイメージをつけました。
教育勅語はどうして作られた??
1868年。
明治維新が起きると、多くの人が欧米に派遣され、国力の違いに圧倒されて帰ってきました。
そして、西洋文明に圧倒されたまま、日本の国柄への不信を口にし始めました。
「封建制の歴史が長いせいで日本の発展が遅れた。日本も共和制にすべきだ!」
「日本が遅れた原因は日本語にある。日本語を廃止して英語を勉強すべき!」
さらに、教育の場でも伝統や文化が次々と排除されていきます。
国語教育にまで外国の翻訳書が使われるほど、「とにかく欧米のマネをする」という意識が蔓延します。
これに危機感を抱いたのが明治天皇でした。
明治天皇は文部大臣の芳川顕正に、教育の基礎となる「箴言(しんげん)」を作るように命じ、教育勅語が作られることとなります。
教育勅語を実際に作ることとなったのは、井上毅(こわし)でした。
当時は、白人による植民地支配の時代。
井上は西洋のことを熱心に学びながら、どうしたら日本を守れるか考えます。
そして、守るべき国柄を知るために日本の歴史についても学びます。
日本の歴史を研究した井上は、日本独自の統治方法に気づき、その根底が『しらす』という考え方にあることを知ります。