司馬遼太郎が「明治国家の父」と評した。日本を支えた小栗忠順の業績!

<出典:wikipedia

はじめに

2世紀以上にわたり続いた江戸幕府。

1853年に黒船が来航したことで、開国か鎖国か、世の中が騒然とします。

そして、幕府が新政府に倒されて日本は開国に至りました。

当時の勝者である明治政府の説明によると、歴史はこんな感じですが、実は江戸幕府は周到に開国の準備をしていました。

当時の大老・井伊直弼は日本人使節団77人をアメリカに送り込みます。

この護衛艦として派遣された咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉も乗っており、鎖国していた当時、井伊直弼は若くて優秀なメンバーにアメリカを見せて世界の情勢や技術を学ばせたのです。

日本人使節団リーダー、小栗忠順

さて。

日本人使節団77人の監査役として選ばれたのが、若い頃から文武に秀で幕臣として活躍していたの小栗忠順(おぐりただまさ)でした。

アメリカに渡った小栗は、日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率見直しの交渉に臨みます。

また、そのときに海軍工場などの先端産業を視察します。

日本に帰国後。

外国奉行、勘定奉行などの要職を歴任して幕政にあたり、近代化を進めます。

中でも後世に大きな影響を与えたのが、横須賀造船所です。

横須賀造船所のおかげで現代の日本がある

明治時代。

日本のターニングポイントは、日清戦争と日露戦争でした。

仮に日清戦争で負けていれば日本は巨額の賠償金を負うことになっていたし、日露戦争で負けていれば今でも白人至上主義が残っていた可能性があります。

二つの戦争に勝てたのは、日本の軍事が近代化されていたからであり、その源が横須賀造船所でした。

小栗忠順が周囲の反対を押しきって造り上げた造船所は、戦争の勝利に大きな貢献をし、その後も日本の近代化に大きな恩恵をもたらしましたのです。

ただ、残念ながら、戊辰戦争で徹底抗戦を主張した小栗は地位を取り上げられ、隠匿生活に入り、その後突然やってきた新政府によって斬首されてしまいました。

まだ42歳の若さでした。

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