<出典:ツイッター>
卑弥呼 2世紀末~3世紀前半
小さな国ができる
中国の歴史書によると、紀元前後の日本は倭(わ)と呼ばれており、そこには100個ほどの国がありました。
1世紀の中ごろには倭の奴国王(なのこくおう)が中国(漢)に使いを送っていました。
そこで漢の王様、光武帝から「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と掘られた金印を受け取ることになります。
日本に多数あった国々は、稲作に適した土地や食料を得るために、争いを繰り返していました。
中国の歴史書にも2世紀後半に倭国で大乱が起こったということが記されています。
女王”卑弥呼”があらわれる
2世紀末から3世紀にかけて、日本国内では争いが続いていました。
この争いはなかなか収まらず、各国の王たちは全体をまとめる王様を探していました。
そこで現れたのが卑弥呼。
邪馬台国の卑弥呼が女王として全体のトップに立つと、ようやく争いが収まります。
こうして、邪馬台国を中心として30個ほどの国々がまとまり、連合国家となりました。
卑弥呼は厳重に守られた宮殿の奥深くに住んでいました。
争いが絶えなかった時代では、いつ殺されるか分からなかったのです。
政治方法は、きわめて呪術的。
神に祈り、占いをして、神のお告げによって政治をきめていました。
卑弥呼が聞いたお告げは、弟によって各国の王たちに伝えられました。
邪馬台国では、すでに税や市場もありました。
収穫したものの一部を税として納めたり、ものを交換する市場があったのです。
また、大人(たいじん)・下戸(げこ)という身分もあり、下戸が道で大人にあった時は草むらにひれ伏していました。
中国への使いをだす
このころの中国は、漢が滅んで、魏・呉・蜀の3つの国が対立していました。
239年。
卑弥呼は魏に使いを送り、貢ぎ物を届けます。
そして代わりに、魏の皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と、胴の鏡などをもらいます。
その後も卑弥呼は魏に使いを送りつづけます。
これは、魏と親しくすることで、他の国々に対抗しようとしたためです。
248年。
ほかの小国と戦っていた邪馬台国。
ですが、卑弥呼がこの世を去ります。
あとを継いだのは男の王様でしたが邪馬台国が混乱してしまいます。
そこで、今度は13歳の壱与(いよ)が女王になり、再び平和が訪れます。
ちなみに、邪馬台国の位置については諸説ありますが、北九州か奈良県が有力です。