<出典:wikipedia>
中大兄皇子 626年~671年
626年。
中大兄皇子は、舒明天皇(父)と皇極天皇(母)の皇子として生まれました。
そのころは、蘇我氏の勢力が強く勝手な振る舞いが目立つようになっていました。
蘇我氏の振る舞いを快く思っていなかった中大兄皇子は、同じ考えを持つ中臣鎌足と蘇我氏を倒す計画をたてます。
そして、645年。
朝鮮からの使者をむかえる儀式で、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を殺害。
この知らせを受けた入鹿の父は自宅に火をつけ自殺しました。
蘇我蝦夷・入鹿を倒した中大兄皇子は、孝徳天皇をたて、自らは皇太子となって新しい政治を始めます。
打倒蘇我氏に協力した中臣鎌足は、内臣(うちつおみ)として皇子を助ける役職に。
中国から帰ってきた高向玄理(たかむこのげんり)は相談役として採用します。
年号も新しく”大化”と定めて、都を難波(大阪府)に!!
こうして、大化の改新がはじまります。
大化の改新をはじめる
646年。
新政府は4カ条からなる「改新の詔(かいしんのみことのり)」を出します。
1、皇族や豪族が持っていた土地・人民は国が直接支配する(公地公民)
2、地方を国・郡に分けて中央集権の政治体制を作る
3、戸籍を作り、それに基づいて田んぼを分け与える(班田収授法)
4、新しい税制を取り入れる
こうしてはじめられた新しい政治のことを大化の改新といい、中央集権国家の仕組みが次第に整っていきます。
同じころ、新羅(しらぎ)が朝鮮半島を統一しようとしていました。
新羅に対抗する勢力である百済(くだら)は日本に救援を要請。
中大兄皇子は北九州に行き大軍を送ります。
しかし、新羅には中国(唐)がついていました。
そのため、日本は敗北。
このままでは、日本も危ないと感じた中大兄皇子は北九州に堤防を作ったり山城を作ったりして侵略に備えました。
天智天皇になる
667年。
中大兄皇子は都を近江へ移すと、翌年、天智天皇となります。
天智天皇になると、日本で最初の法律「近江令」を定め、670年には庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍を作りました。
671年。
天智天皇が亡くなると、後継者争い勃発。
弟の大海人皇子と子どもの大友皇子が対立します。
壬申の乱と呼ばれる戦いに勝利した大友皇子は、即位して天武天皇になりました。