明治時代の流れと服装・暮らし・食事を解説2

国会開設の要求が各地で高まる

西南戦争が起こったころ。

選挙で議員を選び政治を行うため、国会開設の要求が出されます。

この要求は雑誌や新聞上で議論となり、やがて自由民権運動という大きな運動に発展していきます。

1870年代末になると、米や農作物の価格が上昇したため農民の生活にゆとりがでてきて、政治活動の資金も豊かになります。

これにより、自由民権運動は農民にも広がり、25万人もの人が関わるようになります。

これに危機感を抱いた政府は、運動を弾圧する条例を出します。

しかし、運動は衰えることなく、政府は10年以内に国会を開くことを約束します。

 

国会開設にともない、憲法案が次々と出されるようになります。

ドイツやイギリス、オーストリア、ベルギーなど、近代国家の憲法やその運用方法を研究し、1889年、ついに大日本帝国憲法が発表されます。

こうして、天皇中心の国家体制が確立され、国民の権利と自由が認められるようになりました。

 

残る不平等条約と世界情勢の変化

急激な改革を進めた結果、欧米による植民地化を切り抜けた日本。

しかし、まだ、江戸幕府が結んだ不平等条約が残っています。

そこで、日本は欧米諸国と条約改正の交渉をしますが、近代的制度を整えていないことを理由に断られます。

 

その後、世界情勢が少しずつ変化してきます。

ロシアが勢力を拡張し東アジアに進行。

これに危機感を抱いたイギリスは、日本を使ってロシアの南下を防ごうと考え、不平等条約の改正に応じます。

 

ロシアに危機感を抱いていたのは日本も同じです。

ロシアの南下に備えるため、まずは朝鮮に中国から独立してもらい同盟を結べるだけの力をつけてもらおうと考えます。

そのために朝鮮を開国させ、日本の商人や商社を進出させます。

しかし、コレにより朝鮮の経済は混乱。

豊臣秀吉が行った朝鮮侵略による反日感情もあって、民衆は反乱を起こします。

この反乱を中国軍が鎮圧。

こうして、日本は朝鮮での影響力を失ってしまいます。




力を蓄え戦争へ

しばらくの間、日本は朝鮮に手を出せませんでしたが、その間に軍事力を強化します。

中国にも勝てるくらいの軍事力を手に入れると、今度は中国と戦争する機会をうかがうようになります。

1894年。

様々な策略を巡らせ、朝鮮から中国軍を追い払うという大義名分を獲得すると、日清戦争がはじまります。

日本軍はすさまじい速さで中国軍を打ち破り、朝鮮半島を北上。

1895年4月、講和条約が結ばれ、日本の勝利に終わります。

この戦争により、日本は1億5000万円以上の利益を獲得し、中国に朝鮮の独立を認めさせます。

 

ロシア vs 日本 = 白人 vs 有色人種

眠れる獅子として恐れられていた中国。

しかし、日本に敗れたことで弱体ぶりを明らかにすると、各国はこぞって中国に進出し鉱山開発などの権益を獲得します。

そんな中、ロシアが満州を占領し朝鮮半島にも影響力を強めてきたため、日本はロシアと交渉。

しかし、交渉は成立せず日露戦争がはじまります。

白人大国ロシアとの戦争は、日本にとって国の命運をかけた戦いでした。

イギリスとの同盟を後ろ盾にして、17億円という巨額の経費を用意。

これは、当時の数年分の国家予算にものぼりました。

日本が総力をあげて日露戦争にあたるなか、ロシアでは専制政治に対する反対運動が高まります。

これにより、戦局を有利に展開できた日本ですが、両者とも経済的・軍事的理由で戦争継続が困難になり、1905年にポーツマス条約を結びます。

内容は日本に有利なものでしたが賠償金は払われず十分なものとはいえませんでした。

そのため、20万人もの死者をだして苦しい生活を強いられた国民には不満が溜まります。

 

その後、日本は欧米の植民地政策をまねて、韓国併合を行い、植民地支配をはじめます。

 

日露戦争から10年後の1914年。

時代は大正時代へ移り、第一次世界大戦がはじまります。

 

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