小野妹子(飛鳥時代)

小野妹子 6世紀末~7世紀はじめ

 

小野妹子は近江国(滋賀県)で力を持っていた豪族だったようです。

朝廷での位は冠位十二階の上から5番目。

大礼という位でした。

 

当時、聖徳太子が推古天皇のサポート役となり、中国では隋が国を統一。

聖徳太子は中国の進んだ文化や政治の仕組みを取り入れたいと考えていました。

そこで、小野妹子が遣隋使に任命されます。

 

こうして、607年。

小野妹子は中国へ渡り、国交を結びに行きます。

しかし、当時はまだ船の技術も発達しておらず、東シナ海を渡るのも命がけ。

加えて、聖徳太子が“対等な立場での国交”を目指したため、中国の皇帝の機嫌を損なう恐れもありました。

それでも小野妹子は遣隋使の役目を引き受けました。




小野妹子中国へ行く

遣隋使となった小野妹子。

海を渡って隋の都、長安に入りました。

そして、隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)に国書を提出します。

国書にはこう書かれていました・・・。

 

「日が昇る国の天子が、日の沈むところの天子に手紙を送ります。・・・」

“日が昇る”国は日本のことで、同時に繁栄を。

“日の沈むところ”とは中国のことで、同時に衰退を表してると読まれました。

 

この日本の方が上位であるかのような文章に、煬帝は激怒します。

しかし、小野妹子の立派な態度に感心すると、朝鮮遠征のためには日本と組んでおいた方が良いと考え、国交を結ぶことを認めます。

 

608年。

小野妹子は無事日本に帰国。

しかし、中国からの返書には「天皇は中国に仕える者」として書かれていました。

“対等な関係”を結ぶために遣隋使として任命されたのに、その役目が果たせなかった小野妹子。

そこで、「中国の皇帝からの返書を途中で奪われた」とウソの報告をします。

本来、返書をなくすことの罪は重いものです。

しかし、交渉が難しいことを知っていた推古天皇は小野妹子を許しました。

 

小野妹子、ふたたび中国へ

608年。

小野妹子は隋の使者とともに、ふたたび中国へ渡ることとなります。

この時の遣隋使には8人の留学生や学問僧も同行し、彼らは中国で30年間みっちりと学んで帰国。

大化の改新で活躍することになります。

609年。

小野妹子が帰国。

冠位十二階の最高の位を授けられました。