戦国時代の流れと軍師・姫・戦い方を解説

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戦国時代

室町時代に各地で勢力をつけた守護や領主は、応仁の乱以降、領土を拡大し法や制度を作って地域を支配しはじめました。
そして、各地で様々な支配体制ができあがると室町幕府の支配は機能しなくなり、戦国時代へと移っていきました。

戦国時代に求められたのは、武力と統治力。
室町幕府のもとで荒れた世では、古い階級や権威では争いをとめることができず、領主や国民は自分を守ってくれる支配者のもとに集まるようになりました。
もともと力を持っていた守護大名は多くの人に頼られたため、戦国大名になって勢力を拡大していきました。

守護大名より階級の低かった守護代や領主も頼られることが多くなり、次第に力をつけていきました。
これにより、下の身分の者が上の身分の者を倒す下剋上が各地で多発。
身分が関係なくなり、それぞれが領土拡大・天下統一を目指すようになりました。

大ニュース!織田信長が今川義元を破る!!

各地で戦国大名が地盤を固め、隣国と争いが続くなか・・・、

1560年。
当時最強と言われていた今川義元が、小大名にすぎなかった織田信長に敗れました。
ここから、時代の中心は織田信長になりました。

信長は徳川家康と同盟を結び、1567年に岐阜を制覇。
天下統一に乗り出します。
まずは足利義昭が室町幕府の15代将軍になるのに協力。
これを理由に京都に上り、中央の実権を掌握しようとします。
しかし、信長に利用されていると気づいた義昭は浅井長政、武田信玄、毛利輝元、比叡山延暦寺などに挙兵を呼びかけ、信長包囲網を作ります。
信長はこれに苦戦。
しかし、浅井長政を破ることに成功すると、浅井長政に味方したことを理由にして反対勢力を次々に倒していきます。

1572年10月。
最強の騎馬軍団率いる武田信玄が、足利義昭の求めに応じて動きます。
武田信玄に一方的にやられる信長・家康連合軍。
信玄の勢いは止められない!!
誰もがそう思いましたが、途中で信玄が病で倒れます。
これにより最大の危機を脱した信長は、足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅亡させます。
その後、朝倉義景、浅井長政を自害に追い込み、石山本願寺の勢力を叩き潰すと信長包囲網は完全に崩壊。
信長は周辺地域を平定しました。

その後も天下統一のための戦が続き、信長は勢力を拡大していきました。

織田信長の富国強兵政策

信長の政策で、特に注目したいのが”楽市楽座”と”鉄砲”。

戦をするには人を集め、物資を調達する必要があります。
そこで信長は、楽市楽座という政策を打ち出し、独占を禁止して誰でも自由に物を売れるようにし、通行税も廃止しました。
これにより、城下町の経済が大きく発展しました。

また、新しいもの好きの信長は、外国から伝わった鉄砲をいち早く取り入れ、騎馬中心だった戦闘方法から大人数で鉄砲を使う戦闘方法に切り替えました。

これらの政策で富国強兵に成功したため、信長は快進撃を続けることができたのです。

明智光秀の裏切りと豊臣秀吉の登場

1582年に武田家を滅ぼした信長は、関東、北陸、畿内、四国、中国地方にそれぞれ兵を送り、天下統一の仕上げに入りました。
しかし、あと一歩のところで、家臣の明智光秀に裏切られてこの世を去ります。

この知らせを受けた信長の家臣、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、すぐに明智光秀を倒して仇を取りました。
これにより信長の後継者候補に浮上した秀吉は、反対勢力を倒し天下統一を目指しました。

1584年。
秀吉にとって最もやっかいだった徳川家康との戦いが始まりました。
戦いは家康有利で進みますが、家康に助けを求めていた織田信勝が途中で和睦を結んでしまい、家康は大義名分を失ってしまいました。
その後、争うことが得策ではないと感じた家康は秀吉に忠臣を誓いました。
懸念であった家康の問題を解決した秀吉は快進撃を続け、1590年についに天下統一を果たしました。

秀吉の政策と朝鮮出兵

豊臣秀吉は農地の権利者やその土地ごとの米の生産量、土地保有者などを整理。
今まで貴族や武士が土地を二重支配していた状況を変えました。
また、農民から武器を徴収することで反乱を抑え、武士と農民の役職を完全に分けました。

秀吉は次第に独裁色を強め、朝鮮にも出兵。
15万の大軍で攻めますが、中国の援軍により苦戦しました。
1598年になると秀吉がこの世を去り、兵は朝鮮から撤退しました。

朝鮮戦争の間、秀吉の出兵依頼をことわり着々と力を蓄えていたのが徳川家康。
秀吉が亡くなると、ついに天下取りに動き始め、時代は江戸時代へ移っていきます。

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