人斬り以蔵こと岡田以蔵の真実!!辞世の句にみる人物像とは!!

1865年5月――人斬り以蔵が打ち首に処されました。

人斬り以蔵とよばれた岡田以蔵は、故郷の土佐や政治の中心であった京都で怖れられた人斬りでした。現在判明しているだけでも、9人の殺害に関与したといわれています。

当時、人斬りといわれた人物たちは、実際に何人斬ったのか、あるいは誰を殺害したのか、判然としていません。

しかし9人の殺害に関与したとわかっているだけで、人斬り以蔵が特出して暗殺を行っていたことが伺えます。

 

「武市先生によろしゅう伝えてつかあさい」

土佐勤王党を率いた武市端山への言付けを残しました。

人斬り以蔵は、この武市端山がいなければ、人を斬ることもなく岡田以蔵として暮らしていたかもしれないのです。

今回は、人斬り以蔵について、辞世の句とともに人物像を探っていきます。

岡田以蔵と武市端山との出会い

土佐郡江ノ口村は七軒の住居が建ち並んでいることから「七軒町」とよばれていました。

現在の高知市相生町にあたります。

岡田以蔵は七軒町に住んでいたため、「七以」というあだ名をつけられたそうです。

 

南国市の南東部、香美郡岩村の郷士の長男として、岡田以蔵は1838年に誕生しました。

郷士の家格ではありましたが、外国船を警戒して海岸防備の募集に応じ、父が土佐藩の足軽として参加したため、土佐城下へ移り住むと同時に足軽の身分になったとみられています。

当時の岡田以蔵の生活は貧しく、道場にさえ通うことができませんでした。

ですが、高知城下で道場を開いていた武市端山に剣術の才能を見出され、剣術の修練をするようになります。

道場主として剣術を指導していた武市端山ですが、学問にも優れていました。

また、坂本龍馬の縁戚でもあったため、岡田以蔵は坂本龍馬とも親交を持つようになります。

武市端山は岡田以蔵にとても目をかけていたようです。

1856年には武市端山とともに江戸へ剣術修行に出ており、1860年には西国諸藩の動向を探ることを目的とした「武者修行」へと旅立っています。

江戸では鏡心明智流、豊後岡藩では直指流剣術を学び、さらに剣術の腕を高めるのでした。

人斬り以蔵の誕生から斬首まで

武市端山が土佐勤王党を結成すると、岡田以蔵も加わりました。

土佐勤王党は尊王攘夷を目的としていました。

これは武市端山と岡田以蔵が江戸へ剣術修行に出ていたときに、久坂玄随や高杉晋作などの尊王攘夷派志士たちと交流を持ったためと考えられています。

 

1862年。

岡田以蔵は人斬りとなりました。

斬られたのは土佐藩士井上佐一郎。

土佐勤王党が藩政の中心を担っていた吉田東洋を暗殺し、その調査をしていたため狙われました。

土佐勤王党が京都に移り、本格的に活動を展開していくようになると、岡田以蔵は「天誅」と称して暗殺を繰り返すようになります。

武市端山に直接命じられてか、それとも自ら武市端山の障害となる人物を斬っていたのかはわかりません。

ですが、仲間内からは「天誅の名人」と称されたとおり、間違いなく土佐勤王党随一といえる剣術の腕を持っていたといえるでしょう。

人斬りとなった岡田以蔵を心配してのことだったのか、坂本龍馬は勝海舟やジョン万次郎の護衛を依頼します。

そのため人斬りから離れた岡田以蔵は、その後、酒色に溺れ落ちぶれていきました。

のちに、罪人として土佐に送還された岡田以蔵は、1865年に斬首され、27歳でこの世を去りました。

人斬り以蔵の辞世の句

人斬り以蔵として怖れられた岡田以蔵は、その境遇のため教養には欠けていたと言われていますが、武士として辞世の句を遺しています。

君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空

辞世の句は岡田以蔵の生涯そのものではないでしょうか。

武市端山のため人斬りとなってひたすら尽くすも、その思いは水の泡のように消えてしまった。

そのあとには、ただ澄わたる空が広がっていた。

諸説あるものの、入獄中の岡田以蔵は拷問を受けながらも、土佐勤王党について知っていることを話さなかったとみられています。

しかし、過酷な拷問で命を落とす勤王党員も出ていたため、武市端山や勤王党の面々は、いずれ岡田以蔵も拷問に屈して白状してしまうかもしれないと、差し入れに毒を混ぜて殺害することまで考えるようになったのです。

毒殺計画は未遂となりましたが、岡田以蔵は何らかの方法で武市端山の裏切りを知ってしまい、すべてを白状してしまったといわれています。

辞世の句をみることで、人斬り以蔵としてではなく、岡田以蔵というひとりの人間の人物像が浮き彫りとなってくるといえるでしょう。

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