幻の総理大臣・三条実美。都落ちから返り咲いたエリートの生涯

<出典:wikipedia

明治時代。
幻の総理大臣が存在しました。
公卿出身の三条実美(さんじょう さねとみ)
公卿社会でもトップエリートにあげられる貴族で、歴代総理大臣には含まれませんが、一度は暫定・三条内閣も誕生しました。

三条実美は初代内閣総理大臣の候補ともなった人物ですが、「赤電報(英文)が読めないようでは……」と、伊藤博文にその座を奪われています。
さかのぼること八月十八日の政変では、七卿落ちの憂き目にもあっています。

今回は、幻の内閣総理大臣・三条実美の生涯をご紹介します。

名門・三条家の超エリートなお公卿さん

公卿の三条家といえば、五摂家に匹敵する名門。
代々受け継がれている香道や音楽の腕前も知られるものでした。

三条実美は、朝廷の内大臣である三条実万の三男として誕生しました。
父・三条実万は、尊王攘夷派であり志士たちと親しくしている人物でした。
そのため、実美は、幼少のころから三条家を訪ねてくる尊王攘夷派志士たちに影響を受けました。
桂小五郎や平野国臣らとも面識がありました。

廃嫡された長男や病気で亡くなった次男に代わって、実美が三条家を継ぐことになったのは、17歳のときのこと。
それからほどなくして、安政の大獄で謹慎処分となった父・三条実万が亡くなりました。
実美は、父のように尊王攘夷派に傾倒しながらも、順調に官位を積み重ね、三条実美はエリートコースを突き進んでいきました。

屈辱の都落ち!八月十八日の政変

朝廷内では尊王攘夷派の公卿と長州藩士が支配権を持つようになり、
徳川幕府に攘夷を迫ったり、孝明天皇による攘夷を目的とした大和行幸も提案したりするまでになり、三条実美も重要な役割を担うようになっていました。

公武合体派の形勢逆転は突然のことでした。
薩摩藩と会津藩が中心となったクーデター。
八月十八日の政変によって、尊王攘夷派の公卿は官位を剥奪された上に京都を追われることになりました。

雨が降りしきるなか、長州を目指す七人の公卿。
三条実美も、そのうちの一人でした。
七卿落ちといわれる、貴族たちにとってはこのうえない屈辱的な出来事でした。

長州での潜伏生活では、土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が傍に控えました。
第一次長州征伐が勃発すると、大宰府に移動することになり、王政復古の大号令をむかえるまで京都に戻ることはできませんでした。

幻の総理大臣・三条実美の末路

王政復古の大号令により、尊王攘夷派の公卿たちは復権を果たし、それぞれ朝廷内の重要なポジションとなりました。
このとき、官職を与えられた三条実美は、明治政府を始動するために奔走。
議定という法律を制定したり、諸外国との条約を締結したり、幹部人事を決定したりしました。

明治新政府が設立されると、実美は新政府副総裁という重役になりました。
さらに右大臣から太政大臣となり、中央政界のトップにまでなりましたが、はじまったばかりの明治政府は課題もたくさんあり、相当なストレスを抱え込むことになってしまいました。

明治政府の大久保利通の記録には、「三条実美は精神が錯乱した」と記されています。
当時、征韓論をめぐって、2つの派閥が衝突。
・朝鮮を攻撃するべきだと主張する西郷隆盛を中心とした派閥
・岩倉具視と大久保利通を中心とした反対姿勢をみせる派閥
三条実美は2つの派閥の板挟みとなり、ストレスのせいで体調を崩し、辞表を提出して岩倉具視に引き継ぎました。

尊王攘夷派の公卿というと苛烈なイメージがありますが、
三条実美は貴族らしくおだやかな性格の人物であったため、調停役にはふさわしかったのですが、
その性格ゆえに追い込まれる結果となってしまったのです。

明治政府で内閣制度が始動すると、内閣総理大臣の候補にあがったのが三条実美と伊藤博文でした。
貴族のなかの貴族である三条実美に、伊藤博文サイドはなかなか発言できませんでしたが、英語が堪能だったことで、伊藤博文が国家のトップになりました。

その後、三条実美は内大臣という名誉職になり、華族社会でリーダーシップを発揮しました。
英国公使夫人は実美を「政治にうんざりしてしまった上品な和製ジェントルマン」と評しています。

第2代内閣総理大臣の黒田内閣が総辞職したときは、明治天皇の命令によって三条実美が政治の舵取りをすることになりました。
たった2カ月ではありましたが、確かに三条内閣が機能しました。

その後、幻の内閣総理大臣・三条実美はインフルエンザでこの世を去りました。
尊王攘夷派の公卿として活躍し、明治政府でも重要な役割を果たした実美は、国葬で送られました。

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