龍馬を暗殺した「見廻組」

<出典:wikipedia

幕末の京。
治安維持に努めた剣客集団で知られる「新選組」。
それに張り合うように、
立場も履歴も違った男たち「見廻組(みまわりぐみ)」も活躍していました。

見廻組誕生

「京都見廻組」は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織でした。
すでに京で実績を上げつつあった新選組は、寄せ集め隊士の乱暴狼藉で評判が悪かったので、幕府は身分のしっかりした者を組織したかったのです。
1864年。
江戸幕府は高禄の旗本である蒔田廣孝(まいたひろたか)と松平康正(まつだいらやすまさ)を京都見廻役に任命。
彼らは200人の御家人(1万石未満の幕府直参で将軍に直接謁見出来ない者)で作られた組を率いる、京都市中の警護を命ぜられました。
見廻組と呼ばれたこの組織は、新選組と同じ京都守護職で会津藩主の松平容保(かたもり)の配下でした。

組の活動、規律と新選組との違い

住み慣れた江戸を離れて危険な京で働くことを御家人たちが嫌がり、見廻組の組士確保は難航しましたが、なんとか形を整えました。
当時の京は、新選組が摘発した池田屋事件や禁門の変などがあった激動の時期。
見廻組はこれらの二つの重要事件に貢献できなかったので、知名度は新選組より低いですが、不審人物の捜索や逮捕、情報収集など一定の活動はしていました。

二つの警備組織が協力し合うことは、まずなかったそうです。
見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を警備し、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街。
組のメンバーの身分の違いのために警備の管轄が分けられていたのです。
ただ、大政奉還後に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいては、新選組と共に旧幕府軍として参戦しました。

新選組には「士道に背く者は切腹」という厳しい掟があったといいます。
しかし、見廻組には厳しい掟は必要ありませんでした。
なぜなら、組のメンバーが身分ある旗本や御家人なので、問題行動は本人が武家社会で面目を失い、家にも影響が及ぶという、武家社会の掟がもうすでに彼らを縛っていたからです。

坂本龍馬暗殺

15代将軍徳川慶喜が大政奉還を表明した1867年。
その最大の功労者である土佐藩士坂本龍馬が中岡慎太郎と共に暗殺されました。
近江屋事件です。
証言者や証拠品が少なく、のちの明治政府からの厳しい追及を避けるため、見廻組の生き残りたちの口は硬く、未だ全容がわかっていません。
一時は新選組の仕業だとされたこともありました。
しかし、生存者やその子孫たちの証言、関係者の書簡などから、
「龍馬の暗殺は、幕府によって指示された見廻組の佐々木只三郎の指揮によって行われ、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎、桂早之助ら数名によって実行された。暗殺理由は、薩長同盟成立で、幕府から恨みを買ったこと、寺田屋事件を起こした犯罪人であったこと」
とされています。
幕府や薩摩による黒幕説などがありますが、実際は見廻組の公務として行われた単純な理由だったと思われます。

戊辰戦争とその後

見廻組は、1868年の戊辰戦争に参加。
この頃、組は佐々木只三郎が全権を掌握しており、1月3日の鳥羽・伏見の戦いで、鳥羽街道での先鋒として薩摩藩兵らと交戦しました
しかし見廻組には銃の装備がなく、苦戦し退却。
6日、橋本付近での戦闘で、腹部に銃撃を受けた佐々木が紀伊国三井寺にて死没。
佐々木を失った見廻組は、事実上解体となり、生き残った隊士は江戸に帰還しました。

1868年3月の江戸城無血開城が決まった後。
3月18日に、組は狙撃隊に改称され、見廻組は名実ともに消滅しました。