第118~120代天皇 後桃園天皇~仁孝天皇

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第118代天皇
 後桃園天皇 ごももぞのてんのう
(1758年~1779年)

1758年。
後桃園天皇は桃園天皇の子どもとして誕生。
名を英仁といい、母は尊称皇太后富子でした。

1770年。
後桃園天皇は、叔母である後櫻町天皇の譲位を受けて皇位を受け継ぎました。
しかし、若いころから病気がちで、1779年に、目立った業績のないまま22歳で亡くなってしまいました。

後桃園天皇には皇子が生まれておらず、皇統断裂の危機に陥ります。
そこで、典仁親王(すけひとしんのう)の第六皇子を養子に迎えて、光格天皇としました。


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第119代天皇
 光格天皇 こうかくてんのう
(1771年~1840年)

1771年。
光格天皇は、典仁親王の子どもとして誕生。
1779年に後桃園天皇が亡くなると、皇子がいなかったため光格天皇が即位しました。

光格天皇は天皇となりましたが、父の典仁親王は以前と同じ大臣以下の地位のまま。
そこで、少しでも優遇しようと考えた光格天皇は、父に太政天皇の称号を贈ろうとしました。
しかし、老中の松平定信に認ません。
朝廷は尊王論の高まりを背景に強く迫りましたが、結局、称号を与えることはできませんでした。

ちなみに光格天皇は、朝廷の儀式の復興にも力を入れ、岩清水社や賀茂社の臨時祭を復活させています。
学問にも熱心で多才な天皇でした。


Emperor_Ninkō

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第120代天皇
 仁孝天皇 にんこうてんのう
(1800年~1846年)

1800年。
仁光天皇は光格天皇の子どもとして誕生。
18歳で光格天皇の譲位を受けて天皇となりました。

仁光天皇は父の意志を継ぎ、儀式の復興に力を注ぎました。
また、皇族や公家の教育機関設置として、御所の建春門外に学習所を設置しました。
学習所では主に和漢の学問が講じられ、次第に尊王論者が集まるようになりました。

1846年。
光仁天皇が47歳で亡くなったため、第四皇子の統仁親王(おさひとしんのう)が天皇に即位することになりました。