第70~71代天皇 後冷泉天皇~後三条天皇

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<出典:城とか陵墓とか

第70代天皇
 後冷泉天皇 ごれいぜいてんのう
(1025年~1068年)

後冷泉天皇は、後朱雀天皇の第一皇子。
藤原道長の外孫にあたります。

1045年。
父の後朱雀天皇が亡くなると、後冷泉天皇が即位しました。
しかし、後冷泉天皇はいつも藤原頼通に言われる通りに行動していて、政務を行わず、蹴鞠や歌合せで遊んでばかりいました。

1051年。
東北で”前九年の役”が起こりました。
しかし、藤原頼通は権力をもったまま。
宇治に平等院鳳凰堂を建設し、1061年には太政大臣に任命されました。

1067年。
後冷泉天皇は宇治に行きますが、翌年、病気で倒れて亡くなってしまいました。


Emperor_Gosanjō

<出典:wikipedia

第71代天皇
 後三条天皇 ごさんじょうてんのう
(1034年~1073年)

1034年。
後三条天皇は、後朱雀天皇の第二皇子として生まれました。
母は、三条天皇の娘である禎子内親王で、名は尊仁(たかひと)
1045年に兄の後冷泉天皇が即位したのを機に皇太子となりました。

当時、170年もの間、天皇と藤原氏は親戚関係となっていました。
しかしこの頃、藤原氏の女性と天皇との間に子供が生まれず、久しぶりに藤原氏と外戚関係のない皇太子が誕生しました。

当時の関白だった藤原頼通は、このことを嫌がっていました。
そのため、尊仁親王(後三条天皇)を冷遇。
歴代の東宮が継承する秘剣「壷切御剣」を渡さないなどの行為に及びました。
そして、娘の寛子が天皇の子どもを産んだら、そちらを皇太子にしようと考えていました。

寛子に子供が生まれないまま、1068年。
後冷泉天皇が亡くなり後三条天皇が即位すると、藤原頼通はショックで関白の職を引退。
これを機に、藤原氏の摂関政治が衰え、院政の時代へ移りました。

後三条天皇は小さいころから学問に打ち込み、高潔な人柄だったため周囲から尊敬されていました。
天皇に即位すると、学者の大江匡房(おおえのまさふさ)を起用。
摂関家に遠慮することなく政治をはじめました。

後三条天皇の政策でもっとも大きなものが荘園整理令の発布。
それまで荘園整理令は何度か発布されていましたが、そのときは最大の荘園所有者である藤原氏が発布していました。
そのためあまり効果がありませんでしたが、後三条天皇は緻密で公正な整理を実施し、基準外のものは容赦なく没収していきました。
これにより、藤原氏の経済基盤が崩れ始めました。

1072年。
在位期間わずか4年で後三条天皇は天皇の位を譲り、翌年、病気で亡くなりました。