第39代天皇 弘文天皇

弘文天皇陵

<出典:wikipedia

第39代天皇
 弘文天皇 こうぶんてんのう
(648年~672年)

648年。
弘文天皇は、天智天皇とその妃の伊賀采女宅子(いがうねめやかこのいらつめ)のあいだに生まれ、大友皇子(おおとものみこ)と呼ばれていました。

671年。
弘文天皇は、天智天皇から史上初の太政大臣に任命されました。
そして、政務全般を取り仕切りました。

672年。
天智天皇が亡くなると、その2日後に弘文天皇が即位しました。
このとき、弘文天皇の最大の脅威は、吉野に住んでいた天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)でした。

大海人皇子には「天皇になりたい」という野心がありました。
大海人皇子は吉野を脱出すると、東国へ退き、美濃や東海道などの諸国から兵を募ります。
対して弘文天皇は西国から兵を徴収。
しかし、弘文天皇のもとには思うように兵が集まらず・・・。
本拠地である近江でも密かに大海人皇子を支持する人間がいて、兵の士気もいっこうに上がりませんでした。

理由として考えられるのが、弘文天皇が24歳という若さだったこと。
それに加えて、弘文天皇自身が文学の人でその側近も文学や政治に秀でた人だったため、武力については頼りなかったのです。

お互い軍備を整えると、弘文天皇軍と大海人皇子軍は近江と大和で激突。
壬申の乱が起こりました。
大和では弘文天皇軍が勝利。
一方、近江では大海人皇子軍が圧勝しました。
敗戦の気配が濃厚となった弘文天皇は大臣と逃げますが、将軍が次々と打たれ逃げる場所が無くなってしまいました。

こうして、弘文天皇は山崎で自害。
首は、大海人皇子に届けられたといいます。
弘文天皇は、天皇になっていた期間が1年にも満たないという、不運な最後となってしまったのです。