平安時代の最先端防衛システム。千年のときを超えて残る平安京!

<出典:wikipedia

京都市の中心部を歩くと、
碁盤の目のように交差する通りに、平安京が造られたときの名残りを感じることができます。

さて。
その昔、平安京が造られたとき。
当時の最新システムが導入されていたことをご存知でしょうか。

12回目の宮廷造り 桓武天皇の平安遷都

645年。
乙巳の変(いっしのへん)の後、孝徳天皇は難波に宮廷を作りました(難波長柄豊崎宮/なにわながらのとよさきのみや)
そしてそれ以降、平城宮、紫香楽宮、長岡宮など、副都や離宮などを含めて11回の宮廷が作られ、その後できたのが平安宮でした。

合計12回の中で大きく変化があったのは、平城京から長岡京への遷都のとき。
平城京での仏教の政治への介入にうんざりした桓武天皇は、784年に仏教勢力と決別するため、長岡京への遷都を敢行しました。
しかし、その後、長岡京では不穏な暗殺事件や死亡事件、さらに疫病の蔓延と大洪水など厄災が続発して人々が苦しみました。
それが怨霊によるものだと判明したため、桓武天皇は再度遷都を決定。
その遷都先が平安京でした。

平安京の最新風水システム

自然環境がよく交通の中心であったことから、現在の京都市である山背国葛野郡(やましろこくかどのぐん)の宇太村が、平安京の地として選ばれました。
長岡京からこの地への遷都の目的は、怨霊を防ぐことでしたから、桓武天皇は当時最先端の風水を取り入れました。

風水によると、最高の地とされるのは「四神相応」の地。
東西南北を守る神々・四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)を配する都市を求めたところ、平安京にはそれが全て揃っていました。

東には青龍の鴨川
西には白虎の山陰道
南には朱雀の巨椋池(おぐらいけ)
北には玄武の船岡山

これら四神がそろったこの土地こそ、新たな都としての理想の地でした。

水をも漏らさぬシステムを持つ最強の都

平安京の防御システムをさらに強固にするため、ほかにも工夫が凝らされました。

・東に三条の大将軍、西に大将軍八神社、南に大将軍社(現在の藤森神社境内)、北の今宮神社らの大将軍神社を建立。
・丑寅(うしとら/北東のこと)の鬼門の方角には延暦寺、北方に鞍馬寺や貴船神社、南方に羅城門の左右に東寺と西寺を配置。
・都の周囲の四方に「岩倉」を配置。平安楽土の祈願を込めた「一切経」を埋蔵。
・都を見下ろす東山の頂・将軍塚に、甲冑姿の坂上田村麻呂をモデルとした約2.5メートルの将軍像を都の方角に向けて埋蔵。

動員できる全ての霊力を使って、平安京の安全を託したのです。

千年のときを超えた都

平安京は唐の長安をモデルにした都です。
東西南北に大路・小路を走らせた碁盤の目のような町並みは、当時としては都市造りとしても最先端。
その中に作られた内裏は、平安京の心臓部として都を北から見つめました。
こうして、平安京は風水・神道・仏教・陰陽道など、あらゆるものを駆使して作られた、最強の都となりました。

その後、千年。
戦乱の時代を乗り越え、現在に至るまで。
当初の名残を残しつつ今も京都は繁栄しています。
もしかしたら今でも、四霊獣をはじめとする都の防御システムが機能してるのかもしれません。