大坂冬の陣・夏の陣って?発端から終結までわかりやすくご紹介!

大坂冬の陣・夏の陣で激戦となった大坂城は、「太閤はんのお城」といわれていました。
太閤はんとはその地位にあった豊臣秀吉のことです。

大坂城は、浄土真宗・石山本願寺の跡地に築城されました。
主君であった織田信長の安土城がモデルになっているといわれています。

豊臣秀吉政権下、この大坂城が日本の中心となりました。
ですが、大坂冬の陣では裸城にされ、夏の陣では焼失してしまいました。
その後、徳川家によって再建・増改築を繰り返された結果、現在の大坂城になりました。

今回は、大坂城をめぐる大坂冬の陣・夏の陣をわかりやすくご紹介します。

「豊臣VS徳川」 関ケ原の戦いからはじまった構図

天下分け目の関ケ原で西軍・石田三成と東軍・徳川家康が激突。
東軍の勝利によって徳川家康が天下をつかんだように見えましたが、この時点での天下人は豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼でした。

関ケ原の戦いは、実質、豊臣家の家臣であった石田三成と徳川家康の内部抗争。
豊臣秀頼は5歳をむかえた子どもだったため、徳川家康が政治の主権を握りました。

豊臣家の代表者・徳川家康は征夷大将軍となり徳川幕府を興して江戸時代になりました。
関ケ原の戦いで徳川家に加担した武将たちは、江戸幕府でも優遇されましたが、
豊臣家に加担した武将たちは、処刑されるか追放される形となりました。
徳川サイドでも比較的豊臣家と親しくしている武将もいましたが、高齢のために次々とこの世を去っていきました。
豊臣家は大坂城を拠点に、豊臣秀頼の母である淀殿が取り仕切っていましたが、孤立無援に等しい状態だったのです。

関ケ原の戦いから徳川家康は豊臣家と交渉をしてきましたが、大坂城のトップである淀はなかなか聞き入れませんでした。
会談が実現したのは関ケ原の戦いから11年後。
豊臣秀頼が希望したともいわれており、会談は始終なごやかなムードでおこなわれました。

しかし会談直後、朝廷から豊臣秀頼が上位の官位を授けられたことによって、両者の関係が悪化してしまいました。
そして、「徳川家との衝突は避けられない」と、大坂城では軍備が整えられていきました。
こうして1614年に大坂冬の陣が勃発しました。

大坂冬の陣!真田丸の攻防戦!

大坂城には戦国の乱世で活躍しながらも、関ケ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川政権下で活躍の場を失った猛将たちが集結していました。
真田幸村も駆け付けています。
また、戦国乱世の下剋上を夢見た山賊崩れや戦場に死に場所を求めた老将軍も加担しました。
豊臣勢力は10万。
これに対して、徳川勢力は20万でした。

大坂冬の陣は大坂城での攻防戦をメインに、各地で野戦が展開されました。
そのうち、野戦では「鴫野の戦い」が激戦として知られています。
大坂城の西部を守備していた豊臣勢力と徳川勢力である上杉軍が激突し、一時は豊臣勢力が圧倒しましたが、結果的には上杉軍が頭脳戦で打ち破りました。

大坂城では出城・真田丸を拠点とした真田幸村勢力が活躍しました。
真田幸村が生活していた紀州は鉄砲の産地として知られており、鉄砲の名手をたくさん抱えていました。
真田勢力の挑発によって戦闘が開始されましたが、徳川軍はことごとく討ち取られてしまいました。

徳川家は大坂城を攻めることはなく、豊臣家との和平交渉を提案。
これによって、大坂冬の陣は一応の決着がついたといえるでしょう。

大坂夏の陣!徳川家康危機一髪!

大坂冬の陣では様々な取決めがおこなわれましたが、徳川家も豊臣家も認識のすり合わせができていなかったのか、お互いに取決めを無視する状態となり、不信感をつのらせます。

大坂冬の陣から、大坂城には浪人たちがいました。
大阪市中で浪人たちが騒ぎを起こしたことにかこつけ、豊臣家に浪人たちを解雇する、もしくは大阪以外の土地へ移るか、どちらかを受け入れるよう徳川家康が迫りました。
これを淀殿が拒否したため、大坂夏の陣が勃発することになりました。

大坂夏の陣では豊臣勢力が7万、徳川勢力が15万以上という規模になりました。
豊臣勢力が商都・堺を焼き討ちにしたことから、戦闘の火蓋が切って落とされました。

豊臣勢力は、紀伊半島方面に向かったところを、浅野軍による返り討ちで敗退を余儀なくされました。(樫井の戦い)
さらに濃霧に見舞われた道明寺周辺の戦闘において、主力武将が相次いで討ち死にしました。

大坂冬の陣でも活躍したのは、やはり真田幸村でした。

追い詰められた豊臣勢力の勝機は徳川家康の首をとるでしか見出せません。
最終決戦の天王寺・岡山の戦いにおいて、真田幸村は自ら徳川本陣に突撃しました。
予想しない真田幸村の猛撃に本陣は混乱。
一説には徳川家康が自害までしようとしたといわれるほどです。
ですが、豊臣全軍が崩れたことで、徳川勢力が盛り返し、あえなく真田幸村も討ち死にしました。

徳川秀忠の愛娘であり、豊臣秀頼の妻である千姫は義母と夫の助命を願い出ましたが、聞き入れられることはなく、ふたりは大坂城で自害しました。
こうして豊臣家が滅亡したことによって、徳川家の天下統一が果たされました。