両派閥のせめぎあい!「大政奉還」と「王政復古の大号令」

日本史の中でも多くのヒーローたちが活躍する人気の時代、幕末。
この時代について知るとき、必ず登場する「大政奉還」と「王政復古の大号令」という歴史用語があります。
これらの言葉はともするとワンセットのようにされがちです。
なんとなく「将軍から天皇へ権力が移った」ということで、その二つの違いについてはうやむやになってしまっていることも多いようですが、実はそれらは明確に違います。

幕末に近代化を目指す二つの対立勢力

1603年、徳川家康が朝廷より征夷大将軍に任命されました。
これは天皇が徳川家に「日本の政治を任せる」ということ。
代々徳川将軍は「朝廷から征夷大将軍に任命される形で、朝廷から政権を預かって」江戸幕府を仕切りました。

しかし、15代将軍・徳川慶喜が将軍になった幕末には、日本の近代化に向けて二つの派閥が争っていました。

・江戸幕府を主体としながら近代化をねらう越前藩、尾張藩、土佐藩たち「公議政体論派」
・江戸幕府を倒して新たな政治制度を作りたい薩摩藩、長州藩たちをはじめとする「討幕派」

最初、両者の力関係は互角で、しかも当時の天皇・孝明天皇は「反討幕派」だったため、討幕派は目立った活動ができませんでした。
ところが孝明天皇が崩御すると、討幕派の公家・岩倉具視(いわくらともみ)が幼い明治天皇を擁立し、形勢は一気に討幕派へ傾きました。

大政奉還

危険を察知した公議政体論派の土佐藩は、「大政奉還の建白書」を将軍慶喜に提出しました。
その内容は、政権を徳川から天皇に返しながらも、徳川将軍をリーダーとしたままの議会を設立するというもの。
討幕される前に政権を朝廷に返せば徳川は助かる、という考えです。
そして1867年10月14日、天皇は15代将軍徳川慶喜からの「大政奉還」を受け入れます。
このため、討幕派は江戸幕府の権力が「奉還」されたことで、討幕を実行する理由を失ってしまいました。
公議政体論派が、討幕派の機先を制したように見えた瞬間でした。

王政復古の大号令

それをまずいと考えたのが、徳川幕府を倒したい薩摩藩や長州藩。
徳川慶喜をリーダーとした議会になれば、新しい政府で思うように政治を行うことができません。
そこで、薩摩・長州がクーデターを起こしたのです。
1867年12月8日、徳川家以外の有力藩だけが御所に参内し、明治天皇臨席のもとで「天皇を頂点とする諸藩連合政権をつくる」と宣言。
これが「王政復古の大号令」だったのです。
同時に、江戸幕府の廃止を決定し、徳川家が全ての役職を返上し、領地も差し出すことを要求しました。
徳川幕府は完全な御用済み扱い。
これがきっかけで旧幕府側の勢力と後の新政府側の間の戊辰戦争が勃発したのです。

つまり「大政奉還」と「王政復古の大号令」とは?

大政奉還は天皇に出した「将軍・徳川慶喜が自ら政権を朝廷に返上しながらも、最大の大名として政治をリードしようとした」徳川幕府側の行動。
王政復古の大号令は「天皇中心の新政府のために、徳川家は官位と領土を全て失い、討幕派の薩長をメインにした新政府を樹立する」朝廷の宣言。
行動を起こした人物たちの立場も、内容も違う二つの言葉の意味がわかれば、敵対する二つの勢力による天皇をめぐるせめぎ合い、企みがより理解しやすくなるでしょう。