超人・西行 頼朝に弓を教え、人造人間まで作った歌人

<西行/出典:wikipedia

平安時代の歌人に西行(1118年~1190年)という人物がいます。
彼は優れた武人であり歌も出来る万能の人。
百人一首にも選ばれた歌があります。
そんな彼には多くの逸話が残されており、これがなかなか興味深いものなのです。

西行のプロフィールがスゴい

まずは西行のプロフィールを見てみましょう。
本名は、佐藤義清(さとうのりきよ)といいました。
西行は、出家した後の呼び名です。

・藤原氏の出身で、家は裕福。平将門の追討で功があった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の9世孫
・鳥羽院のエリート精鋭部隊・北面の武士で、平清盛は同い年の同僚
・容姿端麗。北面の武士の採用にはルックスも重視されていた
・和歌と故実に通じており、高く評価されていた
・疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)と蹴鞠(けまり)の名手

文武両道で美形の西行は、華やかな未来を嘱望されていた青年でした。

出家する西行の思い切りの良さがスゴい

彼は23歳にて突然出家してしまいました。
出家理由は明確ではありません。
仏に対する心の強まり、政界への失望、友人を亡くした無常観などのほかに、禁断の恋だった鳥羽院の后である待賢門院に失恋したことも原因の可能性があるとか。

当時、「出家」は珍しくはありませんでしたが、西行のように官位を持った若く将来有望の青年が、地位を捨てたことに世間は注目しました。
また、出家後に延暦寺などの大寺院に属さず、地位や名声も求めず、山里の庵に暮らし漂泊の旅に出たことも特異なことでした。

とにかくやった事がスゴいことだらけ

『新古今和歌集』に最多の94首が入選

彼は宮廷歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠みました。
いわゆる「聖人」と違い、出家しても煩悩に苦しむ自分の心の弱さを素直に歌にしています。
『新古今和歌集』にはなんと最多の94首が入選しています。

源頼朝に頼まれ、流鏑馬の指南をした

1186年に鶴岡八幡宮参詣の折りに偶然西行と出会った将軍・源頼朝は、ぜひにと彼を館に招きました。
頼み込んで、流鏑馬(やぶさめ)や歌道の事を詳しく聞き、西行が話す弓の持ち方や流鏑馬のコツを書記に書き留めさせました。
翌日も滞在を勧められた西行ですが、さっさと立ち去り、頼朝から土産にもらった高価な銀製の猫は、館の門を出るなり付近の子どもにあげてしまったそうです。

奥州藤原氏に砂金の催促に行った

源平動乱で大仏殿を含む伽藍の大半を焼失した東大寺。
藤原氏出身で太いコネクションもある西行は、東大寺の高僧・重源(ちょうげん)に頼まれ、奥州の藤原秀衡が以前約束した大仏を鍍金(ときん/メッキすること)する砂金提供の催促をしに東北へ行きました。
秀衡は、西行との再会後すぐに砂金を送らせています。
70歳の老人西行が伊勢・岩手間を往復するのもスゴければ、秀衡に言ってすぐに砂金を奈良に送らせた西行はスゴい人ではないですか。

人造人間を作った

鎌倉時代の作者不詳の説話集『撰集抄』から、西行にまつわるちょっと不気味なスゴい話を。

西行が高野山の奥に住んでいた頃、人恋しくなった彼は、鬼が人骨を集めて人間を造る要領で、人造人間を作ることにしました。
方法を知っていた西行は、野原から骨を拾い、人の形に並べて香木を焚き、秘術を施します。
ところが、出来上がった人造人間は失敗作で、血色が悪く、心もなく、吹き損じた笛の音のような声が出るだけ。
どうしようもないので高野山の奥に捨ててしまいました。
後日、秘術を知っている人に確認して間違ったところを指摘してもらいましたが、その後はつまらなくなってもう人造人間を作るのを辞めたそうです。
しかし、失敗作といえども人造人間を作ったとは・・・。

西行は亡くなるときもスゴかった

ねかはくは 花のしたにて 春しなん
そのきさらきの もちつきのころ  (『山家集』)

(願うことなら、旧暦2月15日の満月の頃、満開の桜の下で死のう)

これは西行が生前に詠んでいた和歌です。
なんと彼は望んだ日のわずか1日遅れで亡くなり、当時の人々は驚嘆したということです。

ただの出家者や歌人ではなかった西行。
多くの人が彼に憧れた、というのもわかる気がしませんか?