一夜で全員滅亡。消えた内ヶ島氏一族の敵とは

<出典:wikipedia

悲劇の武将と呼ばれる人は何人も存在しますが、この内ヶ島一族の悲劇・不運もかなりのものです。
滅亡した一族は、何が起こったのか理解しないまま逝ってしまったことでしょう。
彼らを消した敵とは、
有史に残る地震「天正大地震」でした。

内ヶ島氏とは

内ヶ島氏5代当主・内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ)の所領は飛騨の白川郷でした。
国力に乏しく、陸の孤島と呼ぶにふさわしい山深い土地です。

内ヶ島氏は代々領内の統治を第一に考え、周辺地域への進出などの野心は持っていませんでした。
それでも、1576年から1578年にかけて侵攻してきた上杉謙信や姉小路自綱(あねこうじよりつな)を撃退しています。
その後、氏理は佐々成政(さっさなりまさ)に従い、当時成政と敵対していた羽柴秀吉との戦のために、生涯で一度だけの所領外への出陣を決行しました。
しかし、その隙に家臣の金森長近に、居城の帰雲城(かえりくもじょう)を奪われてしまいました。
それでもなんとか秀吉との和睦に成功し、所領は安堵となり、城で祝いの宴を開きました。
そしてその夜、滅亡しました。

内ヶ島一族に何が起こったのか

城内の内ヶ島氏理をはじめとする一族や家臣たちは宴で酒も回り、いい気分でいたところ…。
突然の大地震に襲われました。
天正地震。
城が建っていた帰雲山は崩れ、土石流が城を飲み込みました。
宴を楽しむ内ヶ島氏一族と重臣たち全ては一瞬にして土砂に埋没し、消えてしまいました。
城だけではありません。
土石流は城下町にもおそいかかり、白川郷では300戸が倒壊・埋没し、周辺の集落数百戸も同様でした。

日本の中部地方を中心に襲った天正地震とは?

天正地震は、1586年1月18日に日本の中部で発生した巨大地震です。
歴史上例のない大地震の様子が、幾つかの記録に残されています。
被害地域の範囲が広く、震源地やマグニチュードについては明確には判明していません。
地震当日の2日前や翌日には前震や誘発地震と考えられる地震も発生し、災害後の約1ヶ月間もほぼ毎日余震が続いていたことが、三河にいた松平家忠の日記にも記載されています。
研究者によれば、マグニチュード7.8~8程度の大地震であったと考えられています(諸説あり)。

どんな被害が起きていたか

海辺などでは津波が発生し、他の大名の領内でも城の被害や、死亡した武将も確認されています。

・津波が見られた場所:琵琶湖、若狭湾、伊勢湾
・城の被害や亡くなった武将など:美濃国の大垣城が全壊焼失、伊勢国の長島城が倒壊、
越中国の木舟城が倒壊(城主で前田利家の弟である前田秀継とその妻など多数死亡)、近江国の長浜城が全壊(山内一豊の6歳の一人娘、その乳母、家老夫妻が圧死)
・寺院:京の東寺の講堂・灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れる
など。

近畿から東海、北陸にかけて現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県辺りまでと広範囲に渡った地震規模でした。

日本はいつの時代も地震に悩まされてきました。
天災の前には、強者の戦国武将もなすすべはなく、一般の人々と同じく無力でした。
和睦で命拾いした内ヶ島氏一族も、次の瞬間には全てを失ってしまったのでした。