中岡慎太郎こそ維新の功労者?その功績と近江屋事件当日を検証!

京都の東山。

清水参道にも程近い坂道の向こうに、京都霊山護国神社が見えてきます。

京都の街並みを見渡すそこには、中岡慎太郎は坂本龍馬と眠っています。

 

1867年に坂本龍馬が暗殺された近江屋事件。

中岡慎太郎は、その場にいたから坂本龍馬と暗殺されたと思われています。

ですが、実際に狙われたのが中岡慎太郎でもおかしくありませんでした。

なぜなら、この中岡慎太郎こそが、薩長同盟を提唱して水面下で働きかけ続けていた人物だったから。

また面白いことに、近年、この近江屋事件が中岡慎太郎の自作自演だったという説も出ています。

そこで今回は、中岡慎太郎の功績と近江屋事件の新説を合わせてご紹介します。

ちょっと城下に用事を…といって勤王志士へ

現在ではゆず栽培で全国的な知名度を誇るようになった高知県北川村。

ここは、かつては土佐国安芸郡北川郷柏木村といわれる地域でした。

中岡慎太郎はこの土地の郷士として、地元のひとたちのために働いていました。

 

地方郷士の中岡慎太郎でしたが、縁があって城下の武市半平太の道場に入門しました。

武市半平太の縁戚であり、親友でもあった坂本龍馬は、この道場へよく出入りしていました。

ここで結成された土佐勤王党に加わったことで、中岡慎太郎の志士としての活動がはじまります。

 

八月十八日の政変で尊王攘夷派を牽引していた長州藩が、京都を追われたことをきっかけに、
土佐藩内でも尊王をかかげる土佐勤王党が弾圧されるようになりました。

そのため中岡慎太郎は、尊王攘夷活動を続けるために脱藩を決意します。

このとき慎太郎は父親に「ちょっと、用事で城下へ行って来るがや」といったようです。

しかしその後、高知城下どころか脱藩をして長州藩に亡命を果たし、さらには八月十八日の政変から長州にかくまわれていた三条実美の衛士にまでなりました。

薩長同盟の先陣を切ったのは中岡慎太郎!

現在では薩長同盟の立役者として脚光を浴びている坂本龍馬ですが、当時の尊王の志士たちに羨望の眼差しを向けられていたのは、むしろ中岡慎太郎だったといわれています。

長州藩内部にて、禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐を経験した中岡慎太郎は、長州藩だけでは尊王攘夷や倒幕を実現できないと考えます。

そして経済・軍事力を兼ね備えた雄藩が一致団することを思いつきます。

これが薩長同盟の土台となりました。

 

第一次長州征伐で幕府側の代表であった西郷隆盛も、勝海舟との会談をきっかけに、雄藩が連合することも視野にいれていました。

そのため、中岡慎太郎からの会談にも応じ、それぞれ足並みをそろえながら、段取りを整えていきました。

 

薩長同盟で坂本龍馬が活躍したのはここからです。

土佐藩出身の中岡慎太郎の動きを知り、亀山社中をまとめあげていた坂本龍馬が協力を名乗り出たのです。

坂本龍馬は亀山社中をはさんで、薩摩藩から長州藩には武器を、長州藩から薩摩藩には米を運ぶという、海運業者ならではの提案をして、双方の距離を大きく縮めました。

薩長同盟を段取りしたのが中岡慎太郎、その土台で薩長を結びつけたのが坂本龍馬、全面的にたずさわっていたのが西郷隆盛だったというわけです。

近江屋事件は自作自演だった?

近江屋事件が起きたのは1867年11月15日のこと。

坂本龍馬の下宿先であった近江屋で、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されました。

腕に覚えがあった坂本龍馬は即死。

それほど剣術が得意ではなかったといわれている中岡慎太郎は2日後に息を引き取りました。

 

有名な近江屋事件ですが、ある新説が浮上しています。

それが「中岡慎太郎・自作自演説」です。

薩長同盟締結のために奔走し、坂本龍馬にサポートしてもらいながらようやく実現した中岡慎太郎。
しかし、薩長同盟の立役者としていわれるようになったのは坂本龍馬。
これを妬んだ中岡慎太郎が複数人で坂本龍馬を襲撃し、返り討ちにあって自らも命を落とすことになった。

こんな新説が挙がっているのです。

近江屋事件についてはさまざまな説があるので、実際は分かりませんが、犯行の動機としては矛盾していないのではないでしょうか。

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