能狂いの将軍・徳川綱吉の事件簿

<出典:wikipedia

江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(1646年~1709年)と聞くと、やっぱり「お犬さま」と呼んで犬をひどく大切にした「生類憐れみの令」を思い出す方も多いのではないでしょうか?

確かにこの法令は悪名高くはありますが、当初は戦国の気風がまだ抜けきらない江戸時代に、命を大切にするという考え方を定着させるために始められたものでした。

ただ、そのうち蚊を殺しても罪になってしまいました。

この綱吉将軍、何事もすることが極端だったんです。

そして彼の趣味「能」への情熱もやっぱり突き抜けていました。

徳川綱吉ってこんな人物

綱吉は、3代将軍徳川家光の息子です。4男でしたから、本来ならば将軍職を継ぐ予定はなかったのですが、4代将軍家綱に跡継ぎとなれる息子がおらず、兄弟が早死にしてしまったことが重なり、棚ぼた式に5代将軍となりました。
儒学に熱心で、文治政治を推進しました。その儒学への熱意は、儒学が重んじる「孝行」にも表れ、母親である桂昌院にも異常なまでに尽くした息子であったようです。

能狂い綱吉に振り回される人々

家康をはじめ、代々の将軍は能を愛好していましたから綱吉の能好きは構わないのです。

しかし、彼は「能狂」と呼ばれるほど熱心で、異常に執着するあまり、とんでもないことを次々と実行します。

1. 自ら能を舞い、それを人に見せまくった

将軍就任後間もない頃から能の会を催し「船弁慶」や「猩々」などを自演する綱吉。

それは年を追うごとにエスカレートし、江戸城内だけでなく、家臣の屋敷や寺社へ赴いては、儒学の講義に続いて綱吉が能を舞いました。

実に1年間に71番の能と150番以上の舞囃子を敢行。

舞う気満々の綱吉に対し、諸大名や公家は、内心は嫌でも「ぜひ」と綱吉の下手な能を望むおべっかを使わなければなりませんでした。

2. 側近・諸大名に能を舞うことを強要した

小姓はもちろん、側近や大大名にも能を舞うことを強制。

1688年4月、徳川綱教・前田綱紀・徳川光友・徳川綱豊・徳川光貞・徳川光圀・徳川綱誠・徳川綱條による能の会が催されました。

実はそれは直前になって綱吉の命を受け、皆が慌てて稽古をした付け焼き刃な会だったのです。

3. 能役者の追放・登用、また流派を無視した移籍などを強要した

1683年2月。

小鼓観世家当主・観世新九郎父子が追放されました。

理由は、観世流であるのに、別流派の宝生流の演目に小鼓を打つことを綱吉に強要され、それを拒否したから。(のちに宝生流に移籍という形で復帰しました)

それ以外にも綱吉は、将軍になる以前からのお抱え役者を無理矢理登用したり、喜多流三世の喜多七太夫宗能を追放して、喜多座を解体させたりなど能界を好き勝手に掻き回しました。

4. 能役者を士分に取り立てた

さて、士分に取り立てられた能役者は喜んだでしょうか。

否。士分となった役者は、能役者を廃業し、綱吉が城中で私的に催す能に出演させられました。

それはエスカレートして各座の大夫や家元といったトップクラスまでそのターゲットに。

それを断ればもちろん追放です。

流派の当主や後継者を急に奪われた各家は大混乱。

喜多座は重鎮を2度奪われ分家は断絶となりました。

取り立てられ、出世する者もありましたが、中には綱吉の男色(男の同性愛)の相手を断ったために切腹させられる者まで出てしまいました。

5. 珍しい曲を好み、廃曲となっていたものを復活させた

綱吉は、古曲から珍しい曲を探し復曲させて上演させることを好みました。

これにより古い演目から41曲が復活しました。

しかし、復活を命ぜられた演者たちにとっては大変な迷惑。

6日ほど前に急に命じられ、慌てて間に合わせに作ったものが殆どでした。

そのうち20曲ほどは現在にも残り、中には「雨月」「蝉丸」など高く評価されているものもあります。

綱吉の趣味は、関わる多くの人を巻き込んだ120%のパワーハラスメントといえそうです。

度が過ぎるのが綱吉

徳川綱吉という人物は、一度のめり込んだらとことん行くタイプでした。

儒学に熱心だったこと、母親への孝行の度合い、生類憐れみの令の執拗さなど、普通以上の執着が見えてきます。

それは彼の趣味である能に対しても同様でした。

趣味に熱心になるあまり、周囲を巻き込み、命や職業を奪ってしまうとは・・・。

なかなか濃い味の5代将軍綱吉でした。

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